春の足音がだんだん聞こえるようになって、もう冬の季節は終わりを告げようとしている。 だんだん暖かくなる日差しの中では校舎に背を預けて座って静かに瞳を閉じた。 澄んだ音が繰り出す音の洪水はいつも心地よく、は授業が終わると聞きに来て気が済むと帰るのを繰り返している。 音ももちろん、技巧も素晴らしく誰が練習しているのかを見ようとはした事は一度もなく、音と練習している曲を頼りに探していていた。 自分も音楽科でピアノを専攻しているが、こんなに堂々と自分を表現できていないし技術的にもまだ足りない事は自覚している。自分にないものを見せてくれている気がして、はその音を聞かずにはいられなかった。 いつものように練習室の下でヴァイオリンの音に耳を傾けていると、いつの間にか音が途切れている事に気付いた。 「君、いつも下で聞いていただろう」 いきなり声をかけられてびくりと肩を揺らして上を見上げると、青い空のような澄んだ水色の髪に琥珀色の綺麗な瞳が訝しげに細められてこちらを見つめていた。 「あ……」 盗み聞きを咎められる前に謝ってしまえと思って開いた唇は、何故か言葉にならずに、慌てては立ち上がったが相手が口を開く方が早かった。 「君は音楽科の……」 「二年B組だからクラスは違うけど。まさか月森くんだとは思わなかったなぁ」 「俺で悪かったのか?」 「や、そんな事は言ってないけど上手いのに納得しただけ」 苦笑しながらそう言えば月森は微妙な顔をしたが、は目の前の端正な顔を見つめて思いを馳せていた。 両親が有名な音楽家という事で知名度は高く、自身もそれに劣らない技巧と才能を持ち合わせているが、それは努力の積み重ねもあってここまで発揮されているのだと思う。 道理で音が違うわけだ。 「君の専攻は?」 「ピアノだよ」 「そうか、それなら丁度いい。君のピアノが聞きたい」 何が丁度いいのかさっぱり判らないが、月森の中では完結してしまっているらしく早くしろと言わんばかりに窓際をあけて部屋の中を見せた。 「会っていきなり演奏が聞きたいって……」 「君も俺の演奏を聞いていたんだろう?」 そういわれてしまえば断れるわけもなく見た練習室の中には、綺麗に黒く光るピアノと月森が使っていた譜面台が見えて、ちらりと月森を見ると早くしろとばかりに目配せされた。 仕方なく窓際に手をかけて飛び乗ると、月森は唖然とした顔をしていては珍しいものをみたような気がしたが気にせずピアノに手を添えた。 「……俺は窓から入れとは言ってないが」 「早くしろって急かしたのはそっちだろ。ま、いいや。何がいい?」 ピアノの蓋を開けながらそう言えば意外にも沈黙がおりて、が月森を見ると口元に形のいい指をあてて何か考え始めた。 難しいのは言わないでくれと思いながら椅子に座ると、月森は決めたらしく壁に寄りかかりこちらを見据えた。 「水の戯れ」 「……わかりました」 鍵盤に手をおくと馴染むような感じがして、は目を閉じて曲を弾き始めた。 もっと堅いクラシック曲を言われるかと思えば、意外にもそうではなく月森は静かに瞳を閉じての演奏を聴いていた。 「月森?」 「……君の演奏は初めて聞くはずなのに、前に聞いたことがあるような感覚に陥るな」 「それ、褒めてると受け取っていいのか?」 「いや……」 「褒めてないのかよ」 苦笑しながらそう言うと月森は困ったようにこちらを見ていて、はお手上げだとばかりにピアノから離れると月森の隣をすり抜けて地面に降り立った。 月森は厳しい事や的確なアドバイスを言えるのに、感情面での表現が上手くないのか困ったようにこちらを見つめてくる。そのかわりに瞳が雄弁に語っているような気がした。 「また、君の演奏が聞けるだろうか」 「聞いてくれるなら、何度でも」 「なら、いつか君と合わせてみたいな」 月森からの意外な誘いに少し驚いていると、穏やかな瞳と目が合って何故か見ているこっちが恥ずかしくなった。 「わかった。そのうち、な」 そう言ったの瞳には爽やかに笑う月森の表情が目に焼きついて、しばらく離れてくれなかった。 ー幕ー |