選択を迫る時

 夕日が辺りを赤く染めると同時に冷たい風が頬を掠め、下校時刻を知らせるチャイムが耳に届きマウスピースから唇を離した。
 授業が終わってからサックスケースと楽譜を片手に屋上へ上がり、ずっとここで練習していたが時間が過ぎていることに気付かなかった。
 練習室は部屋数が決まっているし、使いたい生徒は大勢いる中で取れる可能性は多くはない。
 それでもサックスを奏でることを我慢できずに屋上に来ていたが、この寒さでは外で吹くのはそろそろ限界かもしれない。
 寒さに身を震わせているとコトリと音がしてサックスケースの傍に缶コーヒーが置かれ、視線を上げるとトレンチコートを羽織った金澤紘人が立っていた。
「さっき声をかけたんだが聞こえなかったみたいだな。こんなに冷たい日に外でやらなくてもいいだろうに」
「すみません。少しでも吹いておきたかったから……来週音楽コンクールに参加するのでその練習してて」
 苦笑しながらサックスの手入れをしていると、ふぅんと素っ気無い返事が聞こえたかと思うとわしゃわしゃと頭を大きな手が撫でている。
 学内コンクールの担当者であり音楽を担当している教師だけに何か言われるのではないかと思ったが、もともと金澤は生徒の演奏にアドバイスはしても、ダメだしをするような教師ではなかったと思い直す。
 ちらりと横目で金澤を見ると金澤の瞳が真っ直ぐにを見ていて、不意に心臓が大きく音を立ててそれがわかってしまうのではないかと慌てて視線を逸らした。
「練習に熱中し過ぎて周りが見えなくなるのは、お前さんの悪いくせだな。もう外で練習するのはやめろ。こんなに身体冷やしてどうすんだ。身体は一つしかないんだぜ?」
 真剣な眼差しで金澤はそう言うと大きな掌がの手を包み込み、その温度差に少し身体が震えたのがわかったがその体温は心地良さを感じた。
「まぁ、俺の手もあまり温かくはないがお前さんよりはまだましだろ?」
「温かい……ですよ。でも先生も止めたほうがいいと思いますよ? タバコ。匂いがします」
 心配されているのは判るが自分だけ注意を受けるのが悔しくて、わざときっぱり言い放つと金澤は苦い顔を浮かべての手から自分の手を離した。
 優しさに触れてしまうとこの先どうしても期待してしまうから、都合のいいように解釈してしまう自分を知っているから敢えて冷たく言い放ったのに。
 いざ本当に離されてしまうとそれを未練がましく追い求める自分がいて、自己嫌悪に陥りそうになる。
「悪いな」
 静かな声が上から降ってきたと思った時には、身体はすっぽりと温かい腕に包まれていては自分の身に起きている事に頭が着いていけず真っ白になった。
「せ、先生?」
 慌てて名を呼べば金澤は低い声で笑うばかりで、彼が面白がっている事が一目瞭然だったがには怒る暇などなかった。
 自分とは違う大きな腕と胸に身体をすっぽりと包み込まれて、自分以外の心音が耳の傍で音を立てている。
 どうしてこうなったのかわからずに固まっていると、金澤は優しくゆっくりとの背中をあやす様にぽんぽんと叩いた。
「煙草の文句なら後で受付けてやるから。お前は少し肩の力を抜いた方がいい、せっかくいい音してるのに力んじゃ勿体ないだろうが」
「……それは教師としてのアドバイスですよね?」
 小さく呟いた言葉は風に攫われて、自分でも聞き取れるか微妙なものだったが確かめたいような確かめたくないような衝動にかられた。
 いつも飄々として捉えどころのない金澤が他の生徒に笑いかける度に、どうしてそれが自分じゃないのかという独占欲に駆られる。
 一人の生徒でしかない自分との接点なんて悲しいくらい薄いもので、学内コンクールに出場したメンバーならいざ知らず授業を受け持ってもらっている身に過ぎない。
 ただ生徒の身体を心配しただけに過ぎないだろうという事は重々承知の上で、それでも可能性を捨てきれなかった。
 だから声をかけてくれた、アドバイスをくれたのだと。
「すみません、もう離してください」
「……せっかくを捕まえたのに離せる訳がないだろ。それにお前さん学校でそういう事言うのは卑怯だろうが。せめて学校の外でしてくれ、俺は教師なんだぜ?そう簡単に手を出せないだろうが」
 今の言葉はどういう意味なのだろうか、腕から逃れようとする抵抗をやめて訝しげに金澤を見つめると少し困ったように笑っている顔が目に入った。
「それは……」
「こういう意味だよ」
 仕方ないと言いたげに微笑んだ金澤は、の頬に手を添えて上を向かせると自らの唇を唇へそっと合わせた。
「……好きだ」
 少し苦い煙草の味に優しく触れるのがまるで金澤そのものの様に感じて、は静かに瞳を閉じてただ金澤に身を委ねた。
「あぁ……どうしてくれる。生徒にはまるなんて今まで無かったのになぁ」
「それは俺のせいですか?」
 苦い声で文句を言う金澤に苦笑しながらそう言えば、当たり前だといわんばかりに冷たい視線がを見つめてきてその理由が理解できなかった。
「視線が気になって気になってな。まぁこれからは安心しろ。離せと言われても聞けないからな」
「っ……」
 耳まで赤く染めたを金澤は楽しそうに見つめて、逃がさないようにその手をきつく握った。

ー幕ー

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