君の近くで

 こんなに甘く切ない音色を奏でるサックスを聞いた事がなく、初めて聞いた時にはどんな生徒が吹いているのかと興味があったが見た瞬間納得した。
 愛しそうにサックスに触れる指先、嬉しそうに微笑まれた瞳が全てを物語っている気がして暫く食い入るように見つめていたのを覚えている。
 今や恋人という関係になり、の姿を見るたびにお互いに視線が合うようになった。
「先生、お願いがあるんだけど」
 躊躇いがちに声をかけられたのは夕暮れの音楽室で、コンクールに向けての練習を見終わった後の事だ。
「ん?」
 手元の楽譜を片付けながら聞き返せば続く言葉はなく、不思議に思いながら目をやればじっと此方を見つめている綺麗な瞳とぶつかった。
 いつもまっすぐな瞳を向けてきて眩しいくらいだが、時々恐ろしく感じる時がある。
 自分は今どんな影響を与えているのか、それがの持っている未来や素質を損なう事には繋がらないと言い切れない不安が少なからずこの胸にある。
「あの……一緒に帰ってもいい?」
 身構えていた質問の中身を聞けば大した事もないと言えば怒られる事は必死だが、思っていた類いの事ではなく金澤はふっと息を吐いて笑みを浮かべた。
「今日だけならいいが、毎回は難しいな」
 たまたま帰る時間が一緒で方向が同じというのは有り得る話だが、それも生徒同士という条件の下だ。
 同性という事もありそんなに問題視されることはないと思うが、教師にとって特別扱いの生徒というのはいない方がいい。
「じゃあ、今日だけでいいから」
 そう言って嬉しそうに笑う笑顔が眩しくて、金澤は笑みを零すと一足先に練習室を後にした。
 約束した時間まで余裕があり金澤はゆっくりと歩きながら空を見上げると、夕焼けに綺麗に染まっていてしばし目を奪われた。
 辺りはまだ春とは言いがたいほど寒い風が吹いていて、思わずコートのポケットに手を入れて壁に寄りかかっていると校舎から走ってくる人影が見えた。
「そんなに走ってこなくても俺は逃げたりしないぜ?」
 苦笑交じりにそう言えばはゆるく頭を横に振り、ふわりと柔らかな笑みを浮かべて唇を開いて呟いた。
「待たせるの嫌だったし、少しでも一緒にいたいから」
 金澤は不意に自分がにそんなに思ってもらうほどの人間ではないような気がして、苦い思いを噛み締めていると少し 離れたところにいた生徒が金澤に気付き手を大きく振った。
「金やーん、今帰りー?」
 気付かれたくなかった相手に見られて金澤はぐしゃぐしゃと髪を掻き毟ると、の手を掴み自分のポケットに突っ込むと嫌そうな顔を隠しもせずに向けた。
「火原、そんなに遠くから呼ぶのは止めてくれないか。学校ならわかるが此処は外なんだぜ?」
「ごめんー。今度から気をつけるからさ。これから何か食べようかと思ってたんだけど、金やんも一緒にどう?」
 誰にでも仲良く話しかけるのは火原の良いところではあるが、それも時と場合によるという事を今日金澤は身を持って知った。
 何も今日この時に会わなくても良かったのにと思っても、もう時既に遅し。
 この場は早く退散するに限るとばかりに笑みを浮かべて言い放った。
「悪いが俺は約束があるんでな。あまり遅くならないうちに帰れよ」
 言い終えるが早いか金澤はの手をポケットの中で握り足早に歩き去り、あとには火原一人が呆然と残された。
「明日聞かれたら誤魔化すか。やましい事はない訳だし」
 そう呟くと隣からくすくすと笑う声が聞こえて、金澤はちらりと横目でを見ると楽しそうに笑みを浮かべていた。
「そんなに笑うような楽しいことはしてないはずなんだがなぁ」
 苦笑交じりにそう呟くと、はごめんと言いながらも笑いが収まる気配がなく、つられて金澤にも笑みが浮かんだ。
 これからどうなるかわからないが、こうして二人で笑いあっていられれば何でも上手くいきそうな気がする。
 我ながら楽観的だとも思うが、今から降りかかる火の粉の心配をしても仕方がないと割り切れば心は軽くなったような気がした。
、これから先何があってもお前だけは……離したりしない」
「はい」
 この笑顔が壊れないように守っていこう、これだけは誰にも譲れないから。

ー幕ー

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