何時だって追いかけるのは俺の役目で、悠々と歩く遥か前の背中を見つめていた。 と言えば最近世界で注目され始めたピアニストで、つい先日もウィーンでのコンサートが大盛況で終わったとニュースで報道されていた。 今は海外を拠点にやっている為に会う事が難しくなったが、一日だってさんの事を忘れた事はない。 早く同じステージに立ちたいと思うのに学生である自分では上手くいかなくて、蓮は人知れずため息をついてコンポから流れてくるさんのピアノに耳を傾けた。 暫くあの優しい声で蓮と呼ばれるのを聞いていない気がして、携帯で彼のナンバーを見ては閉じるという事を繰り返していた。 「凄いな、本当かよ」 「マジだって。職員室で言ってたんだって。あのが」 こそこそと囁かれる言葉の端々が気になって目を向ければ、同じクラスの少年が二人びくりと身体を震わせて足早に立ち去っていく。 今、確かにと聞こえた気がしたのは気のせいではないと思う。 彼がどうしたというのだろう、この星奏学院の卒業生であるさんの名前が出てくるのは珍しくないがどうも気になる。 ふとその時、金澤先生がクラスの入口に立っているのが目に入った。 「呼び立ててすまんな」 「いえ」 金澤先生が連れて来たのは屋上で、回りには人影もなくひっそりと静まり返っていた。 「お前さん、を知ってるよな」 「はい、さんが何か」 今まで先生方の間でさんを名前で呼ぶ事はしないようにしていたのに、何かあったのかと動揺を隠し切れなかった。 俺の動揺に驚いた瞳をした金澤先生は心配するような事じゃない、と前置きした話は十分俺を驚かせるものだった。 「いや、今回の学内コンクールを聞きたいと直々に学校に連絡が来たんだが、それきり連絡がつかなくてな。お前さんなら連絡係に最適だと思ったんだが、頼めるか?」 「わかりました」 金澤先生は頼んだぞと笑顔でいうと、月森の肩を軽く叩いて立ち去って行った。 来るのならどうして最初から自分に連絡をくれないのか、そう思ってしまう自分が嫌でため息を一つ付いて気持ちを切り替えるが上手くいかなかった。 音楽は生まれた頃から一番近くにあって、ない生活など今では考えられないほど大切なものになっているが小さい頃にはそんな風に思ったこともなかった。 両親の前だと恥をかかせたくないという気持ちで緊張する事もあったが、そんな蓮を気遣ってくれたのがさんだった。 さんの父と俺の父が知り合いと言うこともあって、幼い頃から色々と面倒を見てくれていた兄のような存在だった。だから気負いもせず何でも話せたのかもしれない。 今の恋人という特別な位置になってもそれは変わらずにいる。 『蓮か、悪いな、全然連絡してなくて……』 何度目かのコールで聞こえたさんの声は少し疲れているようにも聞こえて、もしかして今は不味かったのかと時計を確認した。 確か時差は八時間くらいだったから問題はないはずだが、コンサートで疲れているのかも知れないと思い自分の気遣いの足りなさに眉を顰めた。 「すみません、さん。かけ直します」 『いや、気にしないで。それよりどうした?珍しいな、電話なんて』 そういえば随分前に電話番号を教えてもらったのにかけた覚えがなくて、付き合っているのに良くこれで続くなと思う。 これもさんの方からのまめな連絡と同じ音楽という繋がりのお陰かもしれない。 申し訳なさを感じてどう声を掛けるべきが考えあぐねていると、くっくっと電話口でさんが笑ったのがわかって連の考えている事がわかったらしく体から少し余計な力が抜けた。 『気にするなって。それより用事があったんだろう?』 「はい。コンクールの日程の連絡を話したかったのと……あと、声が聞きたかった、です」 そう言いながら配られたコンクールの日程を見ながら目を通すと、不意にさんが黙って暫くしてから大きな溜息が零れたのが聞こえた。 『蓮、いい、後で言う。蓮に内緒で驚かせようと思ったのになぁ。で、いつだって?』 簡単に第一セレクションから最終セレクションの日付を言っていくと、さんは少し唸ってから最終セレクションに行くと伝えて欲しいと伝言を頼んだ。 『本当は全部生で聞くのが一番なんだけど、録音しといてくれないかなぁってかなやんに伝えといて。あとさ、さっきの、だけど。電話で会いたくなるような事言うの反則だろう』 「反則、ですか。それを言うなら貴方こそ、一人で先に進んで俺の事見てもいないのに」 『蓮なら負けず嫌いだからきっと追いかけてくるって思ってるし、音楽に捕まってるうちは浮気なんて心配もないし。ただ会えないのは辛いからこまめに連絡はしてもいいか?』 さんほど俺のことをわかっている人はいないと思うぐらい、ずっと俺の事を思ってくれて大切にしてくれているのが嬉しくて笑みが零れた。 『蓮?』 「いいですよ。俺も電話しますから」 最終セレクションを見に来てくれる約束してくれたさんの為にも、今まで音楽を続けてきた自分にも恥じない演奏をしたい。 時々は日本へ帰ってきていたが、俺が星奏学園に入学してから演奏を聞かせた覚えがないからきっとさんは驚くだろう。 彼の近くへいけるように、そしていつか彼の隣で一緒に胸を張って演奏できるようになりたい。 『ん、待ってる』 言い終えるのが早いかさんの口から小さな欠伸が聞こえて、慌てて彼は悪いと謝ったが時計を見れば思いのほか時間が経っていることに気付いた。 「すみません。では、おやすみなさい」 『あ、うん。蓮、愛してるよ。おやすみ』 恥ずかしそうに笑うさんの笑顔が見えた気がして、俺も小さく愛してますと呟いた。 最終セレクションが終わったら、もう一度気持ちを伝えよう。俺のこの気持ちを。 ー幕ー |