Amazing grace how sweet the sound 伸びやかな声が響く。 日曜日の穏やかな昼下がり。 学校は休みで部活動以外の生徒しかいないのが常であるが、音楽科のある星奏学院は休日であろうとなかろうと生徒で溢れている。 一人、誰も居ない練習場所を探して歩いていた月森はふと足を止めた。 だが、学校で聞こえてくるのは圧倒的に楽器の音がほとんどで、歌を聞くのは珍しいのだ。 それぞれ楽器に関する科がある星奏学院だが、声楽科はない。 もしかしたら交流がないから知らないだけで、普通科に合唱部などがあるのかもしれない。 I once was lost but now am found, 何となくつられるようにして声の響く方へ、足を進めて行く。 曲はアメージング・グレイスで、何かの演奏に乗せているわけではなく完全にアカペラのようだった。 辿りついた先は誰も居ない校舎の裏庭。 He will my shield and portion be As long as life endures. 徐々に明瞭になる声を辿れば、一本の木に辿りつく。 顔は見えないが、どうやら木の陰に腰を下ろした人物が歌声の主であるらしい。 歌に誘われて来たは良いが歌を追って、どうしようとしていたのかを考えていなかったのでその場に立ち止まる。 ―――と つーるとかーめがすうーべった 先ほどの同じ声が響く。 アメージング・グレイスから、急にかごめかごめに切り替わったのは、やはりこちらに気づいているからなのか。 後ろの正面だぁれ? それだけ歌い終えると、声はふつりと止まってしまう。 少し残念に思いながら、そっと声を掛ける。 「立ち聞きして済まない。音楽科二年の月森 蓮だ」 一応名乗ると、返答はなく木陰からひょこひょこと手だけが見えて、それに招かれる。 ほんの少し疑問に思いながらも、そのまま立ち去るのも気まずいのと、声の主に興味があったのも事実なのでゆっくりと木に近づく。 そこにいたのは普通科の制服を着た一人の男子生徒で、ゆったりと木に背を預けて腰を下していた。 「誰かと思えば……香穂ちゃんの恋人さんか」 投げかけられた言葉に、目を見開くと相手はからからと笑って見せた。 「日野とはそういう仲ではない」 日野香穂子は同じ二年だが普通科の生徒である。 普通科でありながらコンクールに出場し、折を見てはたまに練習に付き合ったり演奏したりはする。 が、恋人になった記憶はこれっぽちもない。 きっぱりと言うと、悪びれた様子もなく変わらぬ笑みでのらりくらりとした返事が返って来た。 「あぁ、照れなくて良いって……Siegreicher Mut, Minnegewinn eint euch in Treue zum seligsten Paar.」 伸びやかに歌われた一節は確かに美しいが、内容が全く持って頂けない。 ワーグナーの結婚行進曲を歌われねばならないのだ。 しかも「誠実なる勇気と愛の恵みにより 汝等は貞淑で祝福された夫婦となろう」の一節を選ぶ辺り、何となくこの人物の性格がうかがい知れた気がする。 「それで君の名前は」 これ以上何か言ったところで、話しに進展が見えないのでこちらから話題を逸らす。 「俺は 、香穂ちゃんのクラスメイト。以後お見知りおきを」 にっと笑ったは、普段の自分なら苦手とする部類の人間だ。 だが、それでも妙に好印象に思えるのは、やはり先ほどの歌声のせいか。 「声楽をしているのか?」 「いんや、俺の声はそういうタイプじゃないからな」 短い言葉だが何となく、言っている意味は理解できた。 美しく伸びやかな声ではあるが、どちらかと言えば発声などの形に囚われず、好きなように歌っていたいタイプなのだろう。 声楽だけではなく、ヴァイオリンなんかでもこういうタイプがいるが、実力や音が良くてもオーケストラやコンクールなどに向かない者も居る。 良い物を持っているので、クラシックが好きな人間からすれば勿体ない気もするのだが。 「そうか……何時もここで歌を?」 ここには足を運んだことがあるし、結構学内のあちこちにいたりするのだが、初めて歌を聞いた。 「普段は歌わないさ。後は、普通科の方で少しぐらいか? というかまともに人に聞かせた事もないし。そんなことよりも」 ひょいっと立ちあがり、は楽しげな笑みを浮かべた。 「立ち聞き料代わりに、香穂ちゃんが惚れた天上の調べを聴かせてもらいたいんだが?」 「それは日野の言葉か?」 「いんや、香穂ちゃんの言葉を俺なりに訳した結果。あ、コンクールで聞けばいい話しだから今は嫌、とは言わないでな」 コンクールは見に行けないから、聞く機会がないのだと残念そうは肩をすくめた。 確かに立ち聞きしたのは事実なのだし、人に聞いてもらう事も勉強にあるのは事実だ。 「解った」 何時もならやはり断っていたのだろうが、つくづく今日の自分は何時もよりも寛大であるらしい。 素直に喜ぶの前でヴァイオリンを取り出し、聞きたい曲を尋ねる。 「じゃぁ、アメージング・グレイスで。楽譜がなくてもいいさ」 「あまり期待はするなよ」 言いながら、先ほどの歌声を思い出しながら、ゆっくりと弓を滑らせる。 紡ぎ出した音は、彼の歌と調和して天高く響いた。 ー幕ー |