重厚感のあるピアノの旋律が、美しく響く。 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲、『心と口と行いと生活で』第6曲 コラール合唱「イエスこそわが喜び」。 『主よ、人の望みの喜びよ」のタイトルで知られる、有名な曲だ。 細い指先が奏でるとは思えないほど、人々の万感の祈りが詰まったような、重たい音だ。 曲を演奏しているのは、音楽家のピアノ専攻であり、学内コンクールで柚木の伴奏者であるだ。 音楽は好きだが移り気な性格ゆえに、途中でテンポを変えて早く曲を終わらせてしまう事もあるが、今日はそんな事もなく最初からゆったりと弾いている。 こうして、真剣なの演奏を聴くのは久しぶりだ。 普段が真面目でないというわけではないが、好きな事をさらっと疲れない程度に楽しむ、が信条らしいのでここまで力を入れて弾いている姿はなかなかお目にかかれない。 ピアノ専攻の中でもトップクラスの演奏をするの、本気の音は実に素晴らしい。 余韻を残して弾き終えると、は椅子の背凭れにぐったりと寄りかかる。 柚木は苦笑しながら、練習室の入口に放置されていたの鞄からペットボトルを取り差し出した。 「あーいたのか」 「本気で気づいてなかったとはね」 ペットボトルを受け取り、は一口飲んで息を吐き出した。 「あー……悪い」 思い出したように言うに、柚木は気にしてないよと首を横に振って見せた。 元々、この練習室は柚木がコンクールの練習のために、予約を取っていたのだ。 家で練習ができない生徒のために、練習室は放課後使用する事が出来るが、高い向上心を持つ生徒が多いため、練習室は直ぐに埋まってしまう。 幸い、柚木は取り巻きの女子かが代わりに取ってくれたり、譲ってくれたりする事があるため、他の生徒よりは優遇されている。 柚木ではなくとも、最近はコンクールに対する関心が高まっているおかげで、参加している生徒は割と優遇される事が多い。 練習室に来て見れば、すでにがピアノを弾いており、部屋に入っても柚木に構わずに曲を弾いていた。 珍しいな、とは思ったが、練習室に入って柚木は声を掛ける事はなった。 の奏でている曲は、柚木がコンクールで弾く曲ではないが、ここまで真剣に弾くを見るのは珍しい事だからだ。 あまり人に聞かせたがらないが、本気で弾いているときのの音は、普段よりも段違いに強い力が込められている。 だから、自分の練習時間が削られるのを承知でずっと聞いていた。 「いつもそれぐらい弾けばいいのにね」 柚木の言葉には眉間に皺を寄せた。 「それじゃ何時もストレスを溜めなきゃならないだろ? そんなに神経をすり減らしたくないね」 おや、と首を傾げると、はふっと溜息をつく。 「俺がピアノを弾くのは、ストレス発散なんだよ。だから、今はストレスを吐き出すために弾いてた」 ピアノを弾くことや音楽自体は好きだが、最初に始めようと思ったきっかけはストレス発散だったのだという。 だから、ストレスがピークになったとき、力を込めて全て吐き出すようにピアノに向かい合うと、それで気が休まるのだといった。 ならば、今まで感動して何度か聞いたの本気の数々は、その身の内に貯め込んだストレスだったらしい。 「じゃぁ、これからのストレスを貯めればまた聞けるわけだ」 「お前、本当に性格悪いな」 の言葉に、柚木は笑った。 「まぁ、冗談だけど逆にいえば俺との演奏はストレスが溜まっていないと考えていいのかな?」 はしばらく考え、あぁと頷いた。 「確かにそうかも」 案外あっさり返って来た肯定、柚木の方が困惑する。 冗談のつもりであまり深い意味で言ったわけではないのだが、はうんうんと頷いている。 「まぁ良いか」 「何が?」 一人勝手に納得したに、柚木は憮然とする。 「まぁ気にしない気にしない」 はぐっと伸びをして、楽譜を広げる。 「さて、お付き合いいたしますよ」 釈然としないが、柚木はフルートを取り出す。 なんだかよくわからないが、の本気の音が聞けて、上機嫌なのを見るとまぁ良いかと思う。 ゆっくりとフルートの音に寄り添うように、ピアノに音が室内響いた。 ー幕ー |