鳴神のせいで

 突然降り出した雨にただどうする事も出来ずに、空を見上げると灰色の重たそうな雲が先程まで青かった空を覆い隠していた。
 行き交う人は走って雨宿り出来そうな店の軒下に入るなりしているが、は抱えた荷物を濡らさないように袖へしまい込んだだけでとても走る気にはなれなかった。
 小雨程度なら濡れてもどうという事もないと思っていたし、おつかいに走った先の店が屯所から離れた場所にあったのも大きな原因だ。
 溜息をついて上を見上げているうちに雨は徐々に酷くなり、遠くでは雷までもが聞こえ始めたのには流石に焦ったが後の祭りだ。
 そうこうしているうちに着物も色が変わり重くなってきて、は仕方なく屯所に向かって重たい足で走り出した。
 やっと着いた屯所は誰もいないかのように静まり返っていて不気味で、いつも五月蝿いくらいの声が今は聞こえない。
 己の呼吸の音しかしなくて、思わず息苦しさを感じてその場から動けなくなった。
 まさか先日の鬼の襲撃のときのように、どこかで戦闘が繰り広げられているのだろうかと荒い息をしながら考えたが、それにしては誰かしら留守番がいないのはおかしい。
 使いにやった近藤はが帰ってくるのを知っているはずだし、同じ隊の人間ならいない事に気付くだろう。
 いくら募集に応じて入ったのは最近で、それほど仲の良い隊士がいる訳ではなくても組長ならばきっと。
 それに土方なら近藤から、用事を言いつけれたのを同じ部屋にいたのだし知っているはずだ。長い 黒髪を靡かせて、その声音でどんな冷徹な命令であったとしても、従わせる力を持つあの人ならきっとどんな事が合ってもこの屯所を無人になんてするはずがない。
 だが、考えていても結局この場を離れて探しにいくのは得策とは思えなくて、一人戸口で途方にくれた。  どれほどそうして一人で立ち尽くしていただろうか、微かに人の気配がしてが視線をあげると、土方が驚いたように目を開いてこちらを見ていた。
「お前……。やっぱり、傘も持って行かなかったのかよ」
「申し訳、ありません。あの、誰もいないのですか」
 土方は嘆息を漏らすと、短く付いて来いと言ってすぐに背を向けて歩き出してしまい、きっと後で話をしてくれるのだろうと素直に後に従った。
 元々土方に憧れて隊士募集に応じて入ったが、こうして直接一人で土方と対面するのは初めての気がする。大抵は近藤や皆がいる前でしか、平隊士でしかないとは接点がないのが普通だと思う。
「これで身体拭いて着替えておけ。今頃他の奴らは外に行ってる。あんまり騒ぐもんだから追い出した」
 追い出された方にしてみたらいつも隊務や剣の稽古に縛られているから願ったり適ったりなのだろうが、五月蝿いからといってそんなことしてもいいのかと思う。
 ふと差し出された土方の手をみると、着流しの着物と手ぬぐいが目の前に置かれて見覚えのある着物に自分のだと気付いた。
「これ」
「悪いと思ったんだが、勝手に出させてもらった。風邪引くよりはましだろ。俺のを渡しても良かったんだが、お前が俺のもの快く借りるほど図太い神経してるとは思えなかったしな」
 そう言われて小さく礼を言うと、土方はくしゃりと力強い掌での髪を撫でて少し笑った。
「お前、俺のこと良く見てるよな」
「なっ、うわっ」
 着替え終わり土方の部屋に顔を出すなり、そんな事を言われては口をつけた湯飲みを落とすところだった。
「あっぶねえな。火傷なんて洒落にならねぇぞ」
 の反応が楽しかったのか、笑いながらそう言う土方を見てさっきの言葉は冗談でからかっただけなのか判別が付けられずに戸惑った。
 ふと視線を上げて顔を見ると、優しい瞳をしている土方がいて不意に胸がどきりと大きく音を立てた。
「俺は……お慕い申し上げております」
 そうかと言って笑った土方はそっと障子を開けると、黒い空に雷鳴が響き渡り辺りを一瞬きらめく光で照らし出す。
 その光に照らされた土方の横顔を、きっと忘れることなど出来やしないだろう。
「これから先、腕の立つ信頼の置ける人間が必要になってくる。江戸から一緒に来た試衛館のやつらにだけ他の平隊士の管理を任せる訳にもいかねぇ。いつも見てろと言ってるわけじゃねぇが頼む、何かあれば俺の耳に入れてくれ」
「……はい」
 が頭を下げると少し悲しそうな瞳をして、そっと障子を閉めて部屋の中に戻ってきた。
「副長が望まれるのなら、どんな事でも」
「なら、……もうしばらくここにいてくれ。さっきから鳴神のせいで仕事が捗りやしねぇ」
 はい、と返事をしたの肩を抱きこみ、土方はそっと胸へ引き寄せた。
 いつもの眉間に皺を寄せて沖田や他の隊士をしかる土方もいいが、こうして気を抜いて休む時間も必要だろう。
 こんな穏やかな土方を見れるなら鳴神も悪くないと思った。

ー幕ー

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