月見で一杯

 目の前に広がる無限大の可能性は一振りで紅く染められ、二度と開かれる事はない。
 ただ後に残るのは何も語らぬ死体のみで、そんなものはこのご時世少なくはない。
 そんな事が日常に起こる中で一人の浪士が店に押し入り、金をせびるのを見てみぬ振りは出来なかった。
 しかも大きな声で「新撰組だ!」と名乗りをあげたのを、確かにこの耳で聞いた。
 非番だった為に隊服を着ていなかったが、急いで飛び込めば慌てて浪士は店を飛び出し不覚にも逃げられるかと思われた。
 だが追いかけている最中に相手から匂うのは酒の匂いで、日頃鍛錬を積んでいる斎藤にとっては相手に不足で、案の定人気のない路地に入りこんだところで捕まえた。
「何故新撰組を語った」
「へへっ……」
 赤い顔で笑うばかりの男をこれ以上、ここで問い詰めても埒があかない。
 斎藤が仕方なく屯所へ連れて行こうとした時、視界の隅で何か動いた気配がして迷う事なく剣を抜いた。
 その直後高い澄んだ音がして、斎藤の刀と路地から飛び出して刃を向けた青年の刀が交わった。
「流石、三番隊組長の斎藤さんだね」
「この者の連れか」
 ざわりと風が吹いて青年の明るい茶の髪が揺れるのを見て、斉藤は緊迫した状況だというのに目を奪われた。
 鋭い視線を向ける瞳に楽しんでいるように口元が弧を描き、しっかりと刀を握る両手は斉藤に負けないくらい剣に迷いがなかった。
 正直な話、新撰組も隊士は増えたが、そこまで剣の腕が立つ者は組長クラス以外はあまり期待は出来ない。日々訓練を行ってはいるが、すぐに上達出来るものではないのが正直口惜しい。
 ここに来てこのような互角に戦える青年がいた事が斉藤には嬉しくて、自分と同じ剣に対する想いを感じたような気がした。
「連れ、じゃないけど同じ穴の狢かな。って、酒禁止されてたでしょ、今戸さん。僕が怒られるんでやめて下さいよ」
「うるせぇな、お前は黙って俺の後をついてくりゃいいんだよ、
 仲間なのかとも思えばそうでもないらしく、今戸と呼ばれた浪士は心底嫌そうに顔を歪めて腰に差した刀に手を伸ばした。
 どんなに強くても酒が入っていては刀の動きが鈍るだろうと思っていたその矢先、ひゅっと音がして銀色に煌く刃が綺麗な線を描いた。
「がはっ」
 呻き声を漏らした男はどさりと地面に伏したまま動くことはなく、は静かに男の首筋に手を当てて事切れたのを確認した。
「もともと問題の多い人でしたけど、此処まで手間かけさせられるなんてちょっと予想外でした。勝手に民衆から金を巻き上げられたりすると動きにくいんですよね」
「……なら何故、今日の騒ぎが起きる前に殺さなかった。あんたほどの剣が立つ腕ならこんな男は今のように簡単だろう。未然に防げたはずだ」
 斉藤が思った事をぶつければは驚いたように目を大きくしてから、くすくすと笑いながら刀についた血を拭って鞘に収めた。
「僕は正義の味方じゃありません。あなた方が京の治安を守るために巡察しているのは勝手ですが、僕には興味がありませんし。まぁ、この人のおかげで貴方に会えたことは感謝してもいいですけどね」
 ふと嬉しそうに笑った顔を見ると、この香織という男も普通に笑えるのだなとどうでもいい事を気にしている自分がいることに気付いた。
 さて、とが小さく呟いてちらりと斉藤を見ると、困ったように少し小首を傾げて辺りを見渡し始める。
「このままここに居ても仕方ありませんし、僕はこのまま帰らせて貰いますが斉藤さんはどうしますか?」
「聞き出そうとした男をあんたが殺したんだ。簡単に帰られては困る」
 斉藤が刀を構えるとは少し困ったような顔を浮かべて、ちらりと空を見上げてから視線を斉藤に戻した。
「斬らないんですか?それとも、斬れないんですか」
 隙があるように見えて、簡単には斬りかかれない空気が香織の周りには取り巻いていて、斉藤は思わず苦い顔をしてを見つめた。きっとこれまで命の駆け引きを何度もくぐってきたのだろう。
「それは」
「まぁいいです。それより今日は月が綺麗だから、少し付き合ってくれませんか。まさか酒飲めない、なんて言いませんよね」
「いや飲めないわけではないが」
「なら決まりです」
 先を歩くの後ろ姿を見ながら借銭としないものを感じながらも、彼と呑む酒の味はどんなものだろうかと口元を緩めた。

ー幕ー

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