しとしとと雨が降り始めた。 先ほどまで日も出ていた空は、曇天が広がって細い絹のような雨が降り始めている。 天の気を変えることが出来ずとも、読むことは出来る。 神としての力を持つにとってそれはたやすい事で、自分の感が当たっていたことに普段なら特別な感慨は浮かばない。それでも今回ばかりはその能力に感謝した。 いつ降るかも解らぬ雨を待つほど気長ではないし、時間こそ人より多くあるが暇な身ではない。 振り出した雨を眺めながら、目閉じて己の姿を辺りの気と同化させる。 人には見えぬ姿となり、そっと橋に向かって歩き出す。 「さて、姫のように現れるものか……」 天の気は読めても、人の心までは読むことは出来ない。 よほど親しい者ならば正確や趣向などから行動を推測することも出来るのだろうが、会ったことも無い人となれば神の力を持っていても役には立たない。 それでもこうして見た事も無い、来るかも判らない人間を持っているのは、が姫と呼ぶ龍神の神子、元宮あかね絡みであるからだ。 は歳を経て神とも呼べる力を持つ狐であり、根城にしている山の主として京に流れる五行の気を支える一部を担っている。それゆえに、都の五行の気を鬼から守り正そうとする龍神の神子や八葉との関わりが深い。 とはいえ、八葉ではないので神子に常日頃から一緒にいるわけではないし、怨霊を操り地を汚す事に関しては抵抗するが直接鬼の一族と敵対しているわけではない。 同族と己の縄張りさえ荒らされなければ、決して手を出さない。そんなあっさりした関係を保っているからか、は何時の間にか神子や八葉の低の良い相談相手という役回りになっていた。 いくら信頼していても、やはり近いだけに話しづらいと言う事もある。神子も八葉に話しづらい事もあり、そんな時にはに相談してくるし、相談以外にもその日あったことを話したりしてくれる。 そして先日、神子から相談ではないが雨の日に橋で会ったという男の話を聞いた。 都を歩いていると雨が降り始め、青龍の二人に促されてどこかで雨宿りしようとした時だった。 ふと橋の上に居る人物に気づいたのだそうだ。 雨の中、橋の上に立っているだけでも不思議であったが、その男は一人でひっそりと舞を舞っていたのだという。 雨の中で舞を舞っていたというのは、からしてみれば不審者の類に入ると思うのだが、神子はその辺りは気にならなかったらしい。 あまり舞に詳しくない神子の目から見ても、男の舞いはとても美しいものであったらしく、男も綺麗な顔立ちをしていたという。 話す神子の様子から、何処と無くいわゆる一目惚れしたのだな、というのが分かった。 幼いと言われることもあるが、神子ももうそこまで子供ではないのだと、どこか一人娘を持つ父親のような気分である。微笑ましく相槌を打っていたのだが、その後にそれとなく話題を振った時の頼久の言葉がやけに引っかかった。 「舞人ですか……私は気づきませんでしたが」 頼久が気づかなかったと言うのが引っかかる。 頼久もいくら観察眼が優れているとはいえ、見逃すものなど多いだろうが、雨の中で橋の上で舞を舞う目立つ人間を見過ごすだろうかと。 そこまで気にする必要は無いとも思いつつ、はそれでも神子の話の通り、件の橋に来ていた。 現れる確証などは全く無いが、それでも自分の気が済めばそれでいいのだ。 何事もなければそれでよいし、居たら様子を見て今後どうするかを決めればよい。 橋に向かって歩き出し、は己の勘のよさに溜息をついた。 舞人は確かにそこに居た。 神子の話していたとおり、赤みがかった髪の整った顔立ちの男が、静かに舞を舞っている。 だが、それはただの人ではなかった。 「死人か……」 鬼の操るような怨霊の類ではないらしいが、それでもこの世に何らかの未練を持って漂う霊の一つであるとは見た。 いくら怨霊ではないとはいえ、のような存在でもない故、神子が深く関わるのはよくないようにも思う。 しかし、神子の様子からまた会いたいと思っているのは見て取れる。 神子は結構一人で出歩く事もあるようで、このままではまた会うことになるだろうし、かといってあまり会うなと忠言するのも如何なものかとも思う。 はあまり人行動を制限するのは嫌いだしされるのも嫌いだ。それに神子を可愛がってはいるが、基本的にはあまり立ち入らぬのが今の立ち位置だからだ。 しばし迷っていると、ふと男と視線が絡んだ。 「お前も……私が見えるのか……?」 いくら人に見えぬ姿になっているとはいえ、男からしてみればとあり方は違えど近しい存在である。 「我は妖狐の類よ。そなたの存在が少々気にかかっての」 雨のおかげで辺りに人もいないので、ふわりと隠していた姿を体現する。 ふさりと白銀の尾と耳が生え、日が差さぬ場所でも神気によって燐光を帯びる。 その姿に男は驚いたように目を見開いた。 脅しつける気はないが、が体現すればその気に当てられて、大抵の怨霊は消えるか逃げる。 だが、男は驚いてはいるが神気に当てられた様子はなく、やはり穢れを帯びた怨霊ではないらしい。 「あの少女も私の姿が見えていた……」 あの少女、というのは神子のことだろう。 「その娘は我の知り合いでな。して、何故ここにおる」 「……」 返答が無いその様子に、は僅かに眉根を潜める。 霊と呼ばれる者達は、稀にこういう者がいる。 何故そこにいるか、何に未練があるのか分からぬもの。 そして、死んだ事すら分からぬ者。 は山の御霊を鎮める者であるが故に、こういった霊を良く見ているが、こう部類の者が一番面倒なのだ。 無理やり気の流れに返すことは出来るが、神子も気にしている事だし、この霊自体も居たところで大した実害も無いので実力行使は躊躇われた。 ならば関わらないのが一番良い方法であるのだが、また神子と会うだろうという確信がどこかである。 「己が何故そこにいるのか、何に捕らわれているのか。分からぬならそれでも良い。ただ、そなたにその気が無くとも、気の巡りに影響があるやもしれぬ。その時には……我も見逃してやることは出来ん」 すっと目を細めると、男は僅かに目をそらした。 怨霊という存在は酷く曖昧な存在だ。 「ただ存在するだけならばそれでも良い。そなたがそこにあることが、悪いわけでもないのだからな」 とりあえず危険はないという確認だけはできたので、帰ろうとさっと身を翻す。 しかし、くんと引っ張られる感覚にふと足を止めた瞬間に、の中に気が流れ込む。 寂しい……苦しい……冷たい…… 多くの霊が抱えるその感情。 直接流れ込むその気に眩暈がする。 「……っ」 「済まない」 ぱっと男が手を離した瞬間にそれは消えるが、よりも男の方が戸惑っている。思念に当てられるほどではないので、は直ぐに笑みを浮かべる。 しゅんと項垂れる男は、どこか捨てられた子供のようで、どこか捨てて置けない気がする。 仕方ない、とは腹を括った。 「付き合ってやろう」 「付き合う……?」 唐突の言葉に男は目を見開いた。 「我の袖を引いたのは、一人がつまらぬからではないのか?」 袖を引いたのは、自分の姿を見えるものが去ってしまうのが寂しかったのだろう。無意識であっても、己の存在を知覚して欲しいと思うのが霊や怨霊である。ならばがそれを叶えてやれば、満足して輪廻の流れに戻れるかもしれない。 「雨も上がればここも人も増える故、わが庭に案内しよう」 男は頷き大人しく後を付いてくる。 その姿が従順な犬のように思えて、小さく笑みを零すと男は不思議そうな顔をしたが、あえて知らぬふりをする。 「……ありがとう」 小さく呟かれた声に、は肩越しに微笑んで返す。 路に迷うものを、無理に還す必要はない。そのうちきっと、あるべき場所に還るだろう。 普段の自分より楽観的過ぎる考えではあるが、男を見るとそんな気がした。 ー幕ー |