二人きりの夜を

 まだ闇が支配する街の中を馬車が一台、従者とを乗せ目的地を目指してひたすら駆けていた。
 ヴィンセントが指定したファントムハイヴ家への到着時間を大幅に過ぎているのは、従者のせいでもなくましてやのせいでもない。ただヴィンセントがへ連絡を怠ったせいで、寝ていた所を起こすところから始まってしまったせいだ。
 きっとヴィンセントに言ったところで一蹴されるに決まっているが、静かに眠っていたところを起こされた方はたまらない。
 文句の一つも言ってやろうと心に誓って、は揺れる馬車の中で一人瞳を閉じた。
 馬車がようやく止まったのは広い敷地の中にある大きな屋敷の前で、以前は何度か来たことがあるがそれがいつ位前だったかは記憶が曖昧で覚えていない。
 実際住んでいる人間の数に比べてはるかに広すぎる屋敷を、感慨に耽りながら見つめているといつの間にか家令の田中が重厚な扉の前で頭を下げていた。
「ようこそ、ファントムハイヴ家へ。様」
「深夜0時頃に馬車で押し掛けるのを止めてくれ」
 外套を脱ぎながらそう呟けば田中は苦笑を漏らしてだけで、ヴィンセントに言っても聞かない事はわかっているのだろう。
 ふと視線を上げれば、楽しそうに笑っているヴィンセントが二階から大階段を降りてくる所だった。
「押し掛けるなんて人聞きが悪いな。僕は大好きな君を招待しただけだよ」
 初めて見るものは表面上の笑みに騙され絆されてしまうのだろうが、長年付き合ったものが見れば何か企んでいるような怪しげな笑みを浮かべているのがわかる。
 ヴィンセントはの手をとり、指先に口付けをしてから目元を緩ませて優しく奥の部屋へと導いていく。
「少し時間が過ぎてしまっているが、問題はないだろう。おいで」
 ヴィンセントに手をとられたまま、は歩き続けたがそれがヴィンセントの自室へと向かっている事に気付いて眉を顰めた。
 何の為に呼ばれたのかも説明もなくわからずに、ただ眠るためならばわざわざを馬車で迎えに来る必要もなかっただろう。
「何を怖い顔をしているんだい?そんな顔をさせる為に連れて来たんじゃないんだけれど、仕方ないな」
 の腰に手を添えながら部屋へと招き入れたヴィンセントは、テーブルに置かれたワインへと手を伸ばし二つのグラスへと注ぎ始めた。
「前もって言ってくれれば良かったんだろうが」
「それではサプライズにならないだろう。誕生日おめでとう、
 片方のグラスをに差し出しながらそういうヴィンセントの笑みは本当に嬉しそうで、はぼうっとヴィンセントの顔に見惚れていたが差し出されたままのグラスに気付いて慌てて指を伸ばして受け取った。
 まさかいつも表社会でも裏社会の女王の番犬としても忙しいヴィンセントが、自分の誕生日を覚えていてくれてましてや祝ってくれるなんて思いもしなかった。
 確かに祝う相手に前もって言う人間はいないだろうが、やる事が突拍子もなさすぎて追い付いていけない。
 だが、素直にヴィンセントの心遣いが嬉しくて頬を緩ませると、いきなり強い力で引き寄せられて抱きしめられた。
「ヴィンセントっ、ワインがこぼれ」
「君のその顔を見られれば僕はそんなのはどうでもいい。ワインなんてあとで掃除すればいい」
 器用にから渡したばかりのワイングラスを奪うとそっとテーブルの上に戻し、きつく腕の中で閉じ込めての瞳の中を覗き込むように顔を近づけた。
 真面目に見つめられると逃れる事ができないような錯覚に陥り、ただ瞳を見つめる事しか出来なくなったにヴィンセントは笑みを零して軽く口付けた。
 ヴィンセントの中で守りたいものは幾つかあるが、その一番大切なものにがいる事を本人はわかっていないと思う。だが、それでも構わなかった。
「生まれて来てくれてありがとう、
「嬉しいが……よく恥ずかしい言葉が言えるな」
が望むならいくらでも」
 と一緒の時間を過ごせる事が何よりも大切で、かけがえの無いもののように感じていた。
 パーティなどにはあまり出ないを誘った事も何度かあるが、人前に出なくて良かったと今は思う。
 伯爵という立場上、色々な場所へ顔を出しては来たが、表面上の付き合いなど疲れるだけで良かったためしなど無い。途中で抜け出してに会いに行った事も何度もあるが、それが時間潰しの様に取られるのが嫌で言わなくてもいいことのような気がしている。
 あの空虚な空間にを入れるのは自分の物だと知らしめるのには最適だと思う反面、誰にもを見せたくないという独占欲の現れのような気がして仕方がない。
「祝ってくれるのは嬉しいが、せめてもう少しやり方を考えてくれ」
「そうだな。今度は俺がの邸に行くようにするよ」
「いや、そういう問題じゃ」
「何か言ったかい?」
 ヴィンセントに笑顔で言われると、どうしても反論が出来ずに引き下がってしまうのは惚れた弱みというものなのだろうか。自分の笑みがどういう力を持っているのか分かってやっている確信犯だろうとも思う。
「いや、なんでも。次も楽しみにしてる」
「あぁ」
 次の約束を取り付けて嬉しくてヴィンセントを見つめれば、優しいキスが唇にもたらされた。

ー幕ー

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