つまらない貴族の集まりの場。 はくわっと思いっきり口を開けて大欠伸をした。 格式やマナーなどなどを重んじる場としてはかなり失礼であり、決して場にそぐわない態度であるが気に留める者などいない。 人の目から見れば美しい毛並みと肢体を持っているとはいえ、ただの犬にしか見えない。 「、こちらへおいで」 呼ばれて気だるげに顔を上げて、足音を立てずに主の足元にすり寄る。 「中々に美しい犬ですな」 さぞ血統の良い犬だろうなどの賛辞が飛ぶが、自身はそんなことはどうでもよい。 見目を賛辞されるのは慣れているし、実際は主へのおべっかが9割ほどを占めているからだ。 それよりも、こういった場が嫌いなのを知っている癖に、わざわざ傍に置いておく男を見上げる。 ヴィンセント・ファントムハイヴ伯爵。 女王の番犬と恐れられる闇の貴族。 はその番犬の番犬という何とも珍妙な立場であった。 ちなみに、姿こそ犬の姿だか実際は悪魔であり本当の姿は自分でも何だか忘れてしまった。 今のように犬の姿を取る事もあれば、人の姿も取ることが出来る。 人の姿で居るからには人の理に則って動く必要があり、それが面倒という言う理由と、ヴィンセントが気に入っている為に普段は犬の姿をしている。 契約しているからヴィンセントが主であるのであり、かといって完全服従しているわけでもない。これと言って二人の間に上下関係は存在しないので、命令などで強制されることない。 の視線をどう受け取ったのか、ヴィンセントは殊更優しく漆黒の毛並みに覆われた首筋を撫でた。 もう帰っても良いかと撫でる手にこつりと鼻先を当てる。 犬の姿とは言え、ずっと絨毯で寝そべっているのも正直疲れるのだ。折角ならお気に入りのソファか陽だまりで寝そべっていたい。 どうせ顔合わせの社交場で、悪魔の本領を発揮する事態になる事もないだろう。 ヴィンセントしばし考えるようにの頭を撫でる。 「解った。部屋に入っておいで」 ようやくお許しが出て、はひょいと足取りも軽く部屋を後にする。 とんとんと軽やかに階段を上がりかけたところで、はぴたりと動きを止めた。 ここは、ファントムハイヴの者でも当主と以外に使う事がない抜け道だ。 そこを、歩いている以外の気配がした。 一瞬、つまらない社交場から抜け出して来たヴィンセントかと思ったが、ヴィンセントの気配とは全く違う。 そうと解って、はしゅるりと体を変化させ、犬から瞬時に人の姿となる。 口元ににやりと笑みを浮かべると、足音も立てずにその気配へ近づいて行った。 こそこそと落ち着きのない挙動不審な後ろ姿に、そぅっとは近づく。 「お客様、道にでも迷われましたか」 穏やかな声を掛けると、悲鳴こそ上げなかったものの飛び上るほどに体を震わせ、男はこちらを振り向いた。 だが、と目線があった瞬間に、僅かに男の顔が緩む。 「君は……ファントムハイヴ伯爵の使用人かね?」 「えぇそんなところです。ここは主と私以外、立ちいらぬ場所ですから道に迷われたのかとお声がけ致しました」 「あぁ、そうか、丁度迷っていたので助かった」 わざとらしい男の物言いに、はつうっと笑みを浮かべる。 どうせ、番犬を探っていたのだろう。 どう遊んでやろうかと考えていたところで、男のねっとりとした視線が絡んでいる事に気づく。 「それにしても君のように美しい使用人がいるとは、ファントムハイヴ伯爵も羨ましい」 は悪魔だが、怠惰と快楽を追い求めた結果堕落した元天使だ。 その見た目は美しく男女問わずたぶらかす自信があった。 男も例に漏れずに、の美貌に引っかかったらしい。 別に引っかけるつもりでこの姿になったわけではないが、これはこれで面白い事になったと笑みを浮かべる。 主はまだこの男に抜け出したのに気づいてはいないようだし、これはまさに良い機会であった。 久々に良い獲物が掛った。 「羨ましいとおっしゃるなら、私に飼われて見ませんか?」 「飼われる?」 じっと男の目を見つめると、男の目はぼうとなり意思がなくなる。 「そう契約は出来ずとも、飼う事は出来る。受け入れるのなら、この体を与えてやろう」 すっと手を伸ばすと、男はの腰に手を回した。 人の心を惑わし堕落させ、良いように操るのは悪魔の専売特許だ。 快楽を与える代わりに、精気と意思を奪い自分に都合の良い操り人形を作る。それがの力であった。 最近はあまりそう言った操り人形を作ってはいなかったが、人間に一人ぐらい都合の良い使い魔がいた方が面白い。事に、この男は裏社会でも顔の利く貴族であるのだから、使えるはずだった。 主から勝手な行動を諌められているが、こんなところをうろついてまんまと罠にはまった男の方が悪い。 が赤い舌を差し出すと、男も躊躇いなくに舌を伸ばした。 ごつん。 酷く鈍い音が響き、甘く凝った雰囲気が一気に瓦解する。 「……ヴィンセントさぁ……空気読めよ」 くるりと振り返ると、杖をもったヴィンセントがにこやかな笑顔で立っていた。 今の鈍い音は、手に持っている色々な物が仕込まれた杖で殴った音だろう。 ただの木で出来たと思えぬ鈍い音と、泡を吹いて舌を出したまま伸びている男を見て、は嘆息する。 「それより、私は部屋に戻っていろと言わなかったかな」 「部屋に入っていいとは言われたが、戻っていろとは言われなかったな」 さらりと返すとふとヴィンセントの表情が変わる。 ぐいっと顎を持ち上げられ、端正な顔立ちが近づく。 「契約者に従うのが悪魔の美学と聞いたけれど」 「どこの悪魔がいったかは知らんが、残念ながら俺は悪魔でも天使でもない半端ものでね。そう言った美学は生憎と持ち合わせていないんだよ」 それよりと、は笑みを深める。 「飼い犬にはさ、餌をやるモノだろう。そのうち噛みつくよ」 にいっと犬歯を見せると、ヴィンセントは僅かに溜息をついた。 「最近機嫌が悪かったのはそれか。だからってこんな男をわざわざ選ぶ必要もないだろう?」 泡吹いて倒れている男を靴の先で蹴ったヴィンセントに、はくつくつと笑う。 「結構俺に好みではあったけどね。悪党になりきれない小物っぷりとか、あと顔とか」 目を細めてヴィンセントを見つめると、しばらく目を合わせていたヴィンセントはまた溜息をついた。 「解ったから、大人しくしおいで」 優しく落とされた口づけは、薄く開いたの口から差し出された舌によって、次第に深くなってゆく。 熱を持ったような甘さと痺れに、はうっそりと笑う。 つうっと離れた互いの舌の上には同じ紋章が刻まれており、は悪魔としての力をヴィンセントに使う代わりに、その精気を奪う。 もちろん利害関係がある分、全てを吸いつくしたり意思を奪うことは出来ないが。 は何だかんだ言ってこの関係が気に入っていた。 「御馳走様」 の言葉にヴィンセントはふっと溜息をついた。 「別に餌をやりたくなかったわけじゃないんだけどね。まぁ空腹の君を見ているのはそれで楽しかったが」 「レイチェル嬢がいるからだってのは解ってるが、今回みたいにいい加減愛想尽かしても知らないぞ」 今まで一人身であったヴィンセントに目出たく結婚が決まったのだ。 だからこそ、今まで割と好き勝手屋敷を行動していたも、今は今までとは違った意味で気を使って過ごさなくてはならない。 「妬いてくれたりしても良いと思うけどね」 「俺とおまえはそんな関係じゃないだろ」 の言葉に、違いないとヴィンセントが笑う。 「さて、この男はどうする?」 未だに倒れている男を見ながらが言えば、ヴィンセントは顎をつまんでしばし考え込む。 「よし、このまま殺っちゃおう」 爽やかな笑顔を浮かべたヴィンセントに、が溜息をつく。 「こいつ貴族だろ?」 「が顔を気に入ってるというだけでも十分鬱陶しい上に、小物の癖に裏社会をかき乱すから邪魔だとは思っていたんだよ」 「後半はともかく、前半関係なくね?」 そうかな、などと首を傾げたヴィンセントだが、すっと上着の内側から取り出したそれに、が表情を変える。 まっさらな白い封筒に、鮮やかな蝋印。 「女王陛下からのお達しだ」 なるほど、とはつうっと笑みを深くした。 「君に血がつかないように、綺麗に処分しておいで。それが終わったら、『ゴホウビ』をあげるから」 ヴィンセントが優しいまなざしで、の首筋をゆるりと撫でる。 「御意」 男が一人消えた。 男は名のある貴族であり、新聞にも大きく書かれた社交界を騒がせた。 だが日々を騒がす他の事件に直ぐに埋もれ、やがてはそんな男の存在も消え去る。 男の末路を知る、二人の番犬もの記憶からも直ぐに消えてしまった。 ー幕ー |