荘厳な彫刻と、美しいステンドグラスの光。 十字架に架けられた神の子が見守る中、漆黒の衣を纏う年若い神父が少女と向き合っていた。 人目にはそう見えただろうが神父が向かい合っていたのは、少女の姿をした悪魔であった。 「人の分際で我を葬る気か……」 可愛らしい十にも満たぬ少女の口から洩れる声は、低い呪詛の言葉であった。 声音こそ少女特有の高い物だが、暗く憎しみの篭ったそれはとても少女とは思えない覇気がある。 だが、言葉とは裏腹に口からはひゅうひゅうと荒い息が吐き出され、体は小刻みに震えていた。 そんな少女と対峙する神父はとても美しい顔立ちをしているが、一切の表情が読み取れずただ無表情であった。 「悪魔を屠ることで神にでもなった……」 「消え去れ」 悪魔が全ての言葉を言い切らぬうちに、神父が冷たく凛と響く声で言い放つ。 決して声量が大きいわけでもなく、神父はただ一言、言葉を紡いだだけであった。 だが、その瞬間に少女の顔は大きく歪み、口から黒い影がぬらりと立ち上る。 黒い影は苦悶するように大きくうねり、やがて静かに大気に霧散した。 黒い影を吐き出した少女は、背後に備え付けられた椅子に倒れ込み、神父はしばし影消えた辺りを見つめていたが、小さく息をついて入口の扉へ向かった。 少女の親である貴族にその体を引き渡すと、代わりにずっしりと重たい袋が手渡される。 この分があればつい先日嵐で破損した屋根の修理と、生活費を入れても十分おつりがくる量だ。 重々しい扉に鍵を掛けて、神父はぽいっと手にした重い袋を長椅子に放った。 ここは小さいが古い歴史のある教会であり、昔から人々から大切にされていた。 しかし、ここ最近は悪魔払いが有名となり、貴族たちがこぞって訪れる事で有名になりつつある。 それも此処にいる神父によるものであった。 神父と言っているもののは元々、神を信仰しているわけでもなく、人を救うと言う崇高な使命を持っているわけでない。 おまけに何か修行をしたわけでもないし、形式的なミサの順序や言葉、洗礼などの幾つかの儀式が出来るぐらいだ。 ただ、の前にここで神父をしていた人物から才能を見込まれ、一通りの事を覚えたのでこの教会を継いだに過ぎない。何か恩があるわけでもないし、ただ生きて行くのに最低限の住居兼教会の維持費の為、淡々と職務を行っている。 敬虔な信者が聞いたら怒りだしそうなものだが、力を使い結果としてそれで対価を得るのだから、立派な労働である。 ただ、最近はやたら貴族が多く掛け込んで来て、無駄に仕事の量と共に面倒事が増えているのが悩みの種だ。 大半は悪魔など憑いていないことの方が多いが、ごく稀に『本物』が憑いている事がある。 としては、教会の維持費と自分の生活分の収入があればそれで良いのだが、許容量を超える仕事量に些か難儀していた。 元々人助けが目的でないが、教会という性質上と今後の寄付の当てを考えると、相手が貴族という事も考えて余り無碍にも出来ない。 は誰もいなくなった静まり返った聖堂で、ふっと小さく息をつく。 「随分とお疲れのようですね」 気配なく背後から掛けられた声に、は反応を示さず、代わりにもう一度小さくため息をつく。 「つれないですね」 わざとらしい声音にちらりとそちらを見やれば、漆黒を纏う優男が一人ステンドグラスの光を受けて立っていた。 その姿だけを見れば、整った顔立ちと周囲の雰囲気も相まって神の御使いと思う者もいるかもしれない。 血のように赤い瞳と、浮かべる冷笑さえなければ。 鍵を掛けて締め切った聖堂に立っているという点では、十分人外といえるのだが。 セバスチャン・ミカエリス。 それが人としている時の名であるのか、悪魔としての名前であるのかは知らないし知る気もないが、この悪魔はちょくちょく折を見てはこの教会に姿を現していた。 悪魔は教会を嫌うと言うような話があるが、実際は入るだけなら悪魔は教会になぞ簡単に入ることが出来る。 最もここは普通の教会ではなく、によってある種の結界が張られており低級な者では入ることが出来ず、また入ればその力は著しく低下する。 先ほどの少女に取り憑いた悪魔がそうであったように。 だが、この悪魔はどうにもそこらの低級とは違うらしく、この教会にやすやすと入り込み、足を踏み入れてなお平然としている。 入り込めばには直ぐ分り、悪魔自身は平然としていても外にいる時のように力を使う事は出来ない。 相性としては最悪な場所にも関わらず、この悪魔は良くこの場所を訪ねて来る。 自身も悪魔と見れば手当たり次第狩っているわけではないため、セバスチャンを狩ろうとした事はない。は動くのは基本的に今回のように正式に依頼があり、自分に敵意を向けて来る者が狩る対象であるからだ。 セバスチャンもそんなの特性を知っているが故に、何をするわけでもなく、ただのらりくらりと他愛もない話をしては帰って行くのだ。 悪魔というのは人間のように群れる者ではないので、同族であろうと他の悪魔などどうなろうと気にしていないらしいが。 「何用だ」 聞いても無駄と解っていながら、はセバスチャンに向き直りそう問いかける。 端からまともな返答など期待していないが、このままと言うのも面倒くさい。 ただでさえ悪魔というのは面倒で関わりたくないのに、悪魔払いを行った今は余計に疲れているのだ。 「おや、貴方にしては珍しく気が立っていますね」 何を言っても効果がないのは解りきっているので、は何も言い返さずにゆっくりと息を吐く。 案外、精神的ないやがらせが目的なのかもしれない。 悪魔というのは人と違う時間を生きるが故に、時間と暇を持て余している存在なのだ。 「これ以上、面倒なモノを相手にする気はない。用がないのなら、さっさと出て行け」 の物言いは気位の高い悪魔であれば激怒しそうなものだが、セバスチャンはその程度では動じる事もない。 別に自身も挑発する気はなく、ただ単に素直は今の心情を言い表したのだが、生憎セバスチャンには通じなかったらしい。 一切の感情も込めず淡々とそう告げたに、セバスチャンはわざとらしく肩をすくめた。 「これは手厳しいですね」 セバスチャンはかつんと石の床を鳴らして、ゆっくりと流れる所作での目の前に立つ。 「ここの結界も普段より大分緩くなっていますよ。それに……」 ひょいっと黒い爪の指がユイリの顎に伸び、顔を引き寄せられる。 「今なら貴方を簡単に捕まえられそうですね」 うっとりと目を細めた悪魔に対して、は微妙なニュアンスに僅かに首を傾げる。 「『簡単に殺せる』の間違いではないか」 「いいえ、貴方ほどの美しい魂を持った人間を殺すのは勿体ない。この手の内に閉じ込めて、私以外を見えないように飼い慣らして差し上げますよ」 たびたび、セバスチャンはの魂を気高いだの美しいだのと表現をする。 聖書に出て来るような己の全てを神に捧げる聖人や乙女のように、はとても敬虔で高潔な志を持っているわけでもない。 今もの表情からこちらの言いたい事は察したようだが、ただセバスチャンは笑っただけであった。 「何時になく大人しい貴方も魅力的ですが、何時もの貴方を飼い慣らすことの方が面白い」 悪魔というのは本当に面倒くさい生き物だ。 だが、こうしている間にも、巧く頭が働かずぼんやりと霧が掛っているような感覚になる。 ここ最近連日のように悪魔払いに駆り出されて溜まっていた疲れが、先ほどの本物の悪魔払いで出てきたらしい。 どちらかと言えば、悪魔払いよりも人間の付き合いの方が疲れる比率が高いのだが。 意識だけでなく視界まで霞みがかり、先ほどから顎を掴まれたままだと言う事に今さら気づく。 「いい加減離せ」 掴まれたままの顎に掛けられた手を軽く払うと、あっさりと解放される。 このまま何時もの軽口に付き合っていては余計に疲れるので、そろそろ切り上げようとしたところで、払った手首を掴まれ体を引き寄せられる。 ぐらりと傾いだの体は、容易くセバスチャンの腕に納められた。 「今日の所は見逃して上げましょう。ですが、十分に体には気をつけなさい。体の疲れは、精神状態にも影響するのですから……そこらの低俗な悪魔にあっさりと持って行かれてはつまらないですからね」 珍しくこちらの体調を気にしているかと思えば、やはりそちらが目的であるらしい。 もともと悪魔に何の期待もしていないが、口で何とか言いながらも一応を放り出す事はしない。存外ゆっくりと丁寧に抱え上げられ、は小さく笑う。 「何ですか」 むっとした表情になったセバスチャンに、は今度こそ噴き出した。 以前のセバスチャンならば、こんな事もしなかっただろう。 だが最近人間の子供と契約して執事のまねごとをしているからが、妙に人間くさい時がある。 「何でもない」 そう答えたものの、セバスチャンは釈然としないらしく難しい顔をしていたが直ぐに、柔らかい笑みを浮かべた。 「ゆっくりと眠りなさい」 言われて、はゆっくりと目を閉じる。 流石に寝首を掻くような真似はしないだろうし、仮にそうなったとしてそれは自分の落ち度の問題だ。 目を閉じた瞬間から、の意識はゆっくりと闇に沈みこんで行った。 ー幕ー |