「……」 呼びかけると、薄らと目を開けた漆黒の美しい毛並みを持つ犬はしばしこちらを見つめ、再び目を閉じてしまう。 これが普段からのの気質であり、そんなところを気に入っていたりするので仕方がないのだが。 「こら」 するりと首筋を撫ででやりながら、ヴィンセントが舌を差し出すと、はゆるりと目を開けてその姿を変える。 しなやかな黒い毛に覆われた四肢は、長く伸びた白い肌に代わり、長く伸びた鼻先は高いが形の良い小さな物に変わる。 唯一変わらないのは美しい艶やかな漆黒と、魅了してやまない赤い瞳。 差し出した舌に己のそれを絡めて来るに、ヴィンセントは緩く目を細める。 「んで、餌まで寄越して起こした理由は?」 ぐぐっと伸びをしながら、やや気だるげにも体を起こしたの首筋を、ヴィンセントは緩く撫ぜた。 「これから出かけるから、シエルの相手をして欲しいんだよ」 ヴィンセントの言葉には露骨に嫌そうな顔を浮かべた。 「お子様のお守はメイドか執事に任せればいいだろうに」 ふわっと欠伸をして、はごろりと再びベッドに横になる。 狩りを手伝うのも、たまにの執事のまねごとも楽しいがお子様の相手はの範疇外の仕事だ。 子供は食べるのは好きだが、我儘で気が代わりやすいところが面倒くさい。 最も、ヴィンセントと妻のレイチェルの間に生まれたシエルは、母親に似て喘息持ちであるが故に家に引きこもりがちで、あまり手がかからないと言えば掛らないのだが。 「シエルの人見知りの激しさは知っているだろう? 今日はレイチェルと執事も出かけるから、相手を頼めるのがお前以外に居ないんだよ」 顎を摘ままれて、もう一度口付けが落とされる。 かなり面倒だが、先に餌を貰ってしまったのでは仕方なく頷いた。 「頼んだよ」 「御意」 短く返すと、ヴィンセントは部屋を出て行った。 何なら犬の姿で寝ているだけでも良い、と言われたのでひらりと犬に姿に変わると、はシエルの部屋に向かう。 犬の姿であっても、は勝手気ままに出歩くことが許されていた。 シエルの部屋の前に来た時、丁度メイドが通りかかったので、小さく扉の前でワンと鳴いて見せる。 「あら、様」 犬であっても、主の寵愛を受けていれば敬称を付けて呼ばれる。 人間とはつくづく不思議な生き物だと思いながら、クゥンと小さく鳴くとメイドは心得ているようにドアをノックして声を掛ける。 「シエル様、様ですよ」 直ぐに元気な返事が返って来て、メイドがくすくすと笑いながら、ドアを開けてくれた。 するりと体を滑り込ませた部屋は、子供部屋とはいえ豪奢で広い。 窓際に備え付けられたベッドは、これまた子供にしては大きく豪勢な物である。 「!」 喜んで駆け寄って来た子供にすり寄られ、されるがままに頭を撫でられる。 顔色を見れば、随分と今日は調子が良いようだ。 とはいえ、外は寒いので調子が良いとはいえ、部屋から出すのは良くないとヴィンセントは考えたらしい。 女王の番犬として冷酷で容赦がないヴィンセントも、こうして家に居れば妻と子の事は大切にしている。 主とは思っているが、は密かにそんなヴィンセントを興味深く観察していた。 「今日は皆いないね。アン叔母様とかリジーも、もっと来てくれればいいのに」 外に出られない分、シエルの遊び相手は少ない。 シエルの口から出た二人をはふと思い浮かべる。 リジーこと、エリザベス嬢は従姉妹であり許嫁であるが、幼い二人にはまだその辺りは理解していない分、いい遊び相手だとは思う。 だがレイチェルの妹、アンジェリーナは果たしていい遊び相手だろうか。 ヴィンセントの事を密かに想い、姉であり妻のレイチェルに密かに嫉妬心を持っている事をは知っている。姉夫婦の幸せを願いながらも、愛している男を奪った女として、姉とその息子を憎く思っているその感情は、にとっては非常に好ましい物だ。 その感情が死なずに大きく育った時には、どんなに面白くなるかと密かに期待している。 愛憎と言うのは、人間の中で最も美しい感情だ。 「ったら!」 うっかり考え事をしていたせいで、先ほどから反応を示さずにいたらしく、焦れた声でシエルがを呼ぶ。 だが、普通の犬は人話など聞かない物だし、そもそもシエルの元に居てみている事が主の命なのだから、どちらにせよどうでもよい事である。 返事代わりに、くわっと欠伸をすると、むっとシエルの機嫌が悪くなる。 これだからお子様は嫌いなのだ。自分の思い通りにならないと癇癪を起こす。 床とはいえ、上質なカーペットの敷かれた床にごろりと横になり、は目を閉じる。 「もう、ってば」 怒っている声が聞こえるが、は視覚と同時に音もシャットアウトした。 ごほっ。 乾いた咳に、ぴんと耳を欹てると、ひゅうひゅうという隙間風の様な音も聞こえる。 むくりと起き上がると、自分の傍にシエルが横になっており、苦しそうに息な繰り返し時折咳込んでいる。 どうやら、あの後が寝ているその横でシエルも寝てしまったらしい。 幾ら室内とはいえ、床は寒い。 外気などを気にしないは良いが、子供となれば体温を直ぐに持って行かれる。 「これだからお子様は……」 犬の姿では滅多にしゃべらないだが、今回ばかりは流石に溜息をつきたくなる。 問題は目付として主に頼まれていたのに、事態を悪化させている事にある。 「寝ていていいと言われたのだから寝ていた」と言ったら、静かに笑って当面の餌がもらえない可能性がある。 は普段、ヴィンセントの精気と番犬の仕事で狩った魂を喰らっている。 契約上、その辺りに居る人間を適当に殺して食う事は出来ないし、別に餌がなくても生きていけるが、快楽を追い求めて悪魔と化した自分にはあまり我慢することに耐性がない。 今は寝ているようだし、するりと犬の姿から人へ姿を変え、シエルをベッドに運ぶ。 小さな体を布団に寝かせ、肩まで毛布を掛けては小さな唇を己のそれで塞ぐ。 ゆっくりと、息を吹き込みそっと離れるともう呼吸は大分落ち着いている。 「……?」 僅かに開いたシエルの目を、は軽く手で塞ぐ。 「ゆっくりとお休み」 そっと耳元で囁くと、シエルは小さな寝息を立て始める。 ふっと息を付いたところで、はゆっくりと後ろを振り返る。 この部屋に入って来た時点で既に誰か解っていた為、そこに立っていた人物には驚く事はしない。 「お帰りなさいませ」 「ただいま」 とりあえずにこやかな笑みを浮かべて挨拶をすると、帰って来たのはにこやかだが目が笑っていない薄ら寒い笑みだった。 「お子様はご覧の通り、ゆっくり眠っていらっしゃるよ」 「お守りご苦労様。労を労ってあげないとね」 ゆっくりと歩み寄って来たヴィンセントに嫌な予感がするが、何にそんな機嫌が悪くなってるのかを確かめたくて黙って見ていると、床に押し倒される。 「お子様の前で随分だね」 「君の暗示でシエルは起きないだろう?」 気づいていたことには関心しつつ、はヴィンセントの顔を見つめる。 「それで、ご主人様のご機嫌が麗しくないのはなんでかな」 「シエルに何故その姿を見せた」 低くなった声音に動じることなく、は首を傾げながらも素直に答える。 「喘息の発作が出たからさ。発作を起こさせた事に対しては謝ろう。だが、犬の姿では運べないのだからしかたない」 あのまま床に転がしておいても結局怒られそうな気がする。それに、子供の喘息は死に至る事もあるため、早めの処置が物を言う。 「ならあの口付は?」 「薬を取って来るのが面倒だった。犬ではしゃべれないのだし、メイドに頼むより手っとり早いだろ? そんなに怒られるほどの事はしていないと思うけど」 の言葉に、ヴィンセントはつうっと口元に笑みを浮かべる。 「お前は私の物だよ。今後、狩りの対象以外に……妻にもシエルにもその姿を見せるな。これは命令だ」 その言葉に、は僅かに目を見開いた後、可笑しそうに嗤う。 「息子に嫉妬とは醜いねぇ」 ひとしきり笑って、はヴィンセントの頬に手を伸ばす。 「その命令には従おう。だが、お守りと薬代は貰っても良いんだろう?」 ヴィンセントは先ほどとは違う、柔らかな笑みを浮かべた。 「そうだね、君は良く出来た私の番犬だ」 先ほどのシエルにした優しい口付けではなく、互いをむさぼり合うような長い口付けが交わされる。 たんまりとヴィンセントの精気を吸い上げながら、は嗤う。 あぁ、これだから人間は面白い!! ー幕ー |