薔薇色の香り

 咽るほど漂ってくる濃い香りに、寝転がっていたはふと体を起こす。
 ひくひくと鼻を上に向けて空を漂う香りを確かめると、それは嗅ぎ慣れたものだ。
 この国の象徴でもある薔薇。
 屋敷の庭にも珍しい色とりどりの薔薇の木が植えられているが、こうも強い香りが部屋の中にまで届く事はない。
 ぐっと伸びをして暇つぶしに匂いを辿ってゆくと、場所は案外近い場所だった。
 主の使う浴室から、一段と濃い香りと湯気が漏れ出している。
 奇特な主か、はたまたまた子息の思い付きか、こっそりと除くと湯船一面に薔薇の花弁が浮いていた。
 薔薇風呂は噂に聞いた事はあるが、こうも水面が見えないほど浮かべる物ではない気がする。
 風呂自体があるのが贅沢な貴族の象徴であるが、これもまた貴族の贅沢というものか。
 しばし、呆れて眺めていると、後ろから声が掛けられる。
「入るかい?」
 見ると、籠を持ったヴィンセントがにこやかな笑みを浮かべている。
「入らない」
 は軽く首を横に振った。
 そもそも、身体に血は流れたりするものの、特別汗もかかないし体を衛生的に保つ必要はない。
 こうして犬の姿を取っているが、毛づくろいも必要ないし、好んで入る意味もない。
「折角、剪定で取れた薔薇を持ってきたのに」
「レイチェル嬢に渡したらどうだ?」
 香りの中には神経を落ち着かせる物もあるし、女性ならば喜ぶだろうと提案すると、既にもう渡した後なのだという。
 それで余ったのを紅茶にしたりポプリにしたり色々試した物の、それでも余ったのでこうしてヴィンセントにも回ってきたらしい。
 薔薇風呂に浸かるご婦人ならばさぞかし絵になる事だろうが、男が薔薇風呂と言うのもなんだか笑える。
「是非人の姿で入って欲しいね」
 表情は出していないはずだが、先ほど考えていたのを読んだのか意地の悪い事を言う。
「なら一緒に入るか?」
 言うと、入ったらどうだと勧めたヴィンセントが、僅かに驚いた様子で瞬きする。
 浴槽の大きさからすれば、別に二人は行ったところで苦にならない大きさではある。
「ちょっと用意して来るから、先入っていいぞ」
 言いながら、は浴室を出で、一旦ヴィンセントの部屋の戻る。
 ふわりと人の姿を取り、そうして首から下げていたルビーの首輪を外して箱に仕舞いこみ、浴室に再度戻った。


「んー匂いが鼻につくけど、まぁいいか」
 丁度いい湯加減で、ちゃぷちゃぷとは手で水面の薔薇を掻き分ける。
直ぐに湯の流れで掻き分けた所に薔薇が流れて来るが、行動自体に意味はなくただ遊んでいるだけだ。
「で、この状況はなんだろうね」
「だから、一緒に風呂に入っているんだろ」
 ヴィンセントの言葉に、は事もなげに答える。
 確かに一緒に入っているが、大きな風呂に薔薇に囲まれて入っているのが犬と男であれば、ただの仲の良いペットと一緒に入っている飼い主の図にしか見えない。
 艶めかしさよりも微笑ましさが勝り、タオルに置きに来た執事からは、「良かったですね」と頭を撫でられた。
 ずーんと影を背負っているヴィンセントには気づいていたが、面白いので元気に「ワン」と鳴いておいた。
「似合うって言うから、一緒に入ってるのに不躾な奴だな」
「意味を解っていて敢てそう言う君は本当に悪魔だね」
 主が思い浮かべたのは人の姿なのだろうが、一緒に入ろうという言葉に特別条件はないのだから、これはこれで間違ってはいない。
 そろそろ良い頃合いなので上がろうとすると、目の前に湿った薔薇の花が大量に落ちてきた。
 ちらりと見ると、ヴィンセントが意地の悪い笑みを浮べている。
 乾いていれば別だが体も薔薇も濡れていので、余計に毛に絡む。
 どうやら意趣返しのつもりらしいが、はひょいっと身軽にバスタブから出た。
 そうして、ぶるぶると体を震わせると、後ろから短い悲鳴が聞こえる。
 後で掃除が面倒だろうなぁ、と他人事のように思いながらさっさと風呂を出てゆく。
 水気は既に無くなっているが、濃い薔薇の香りが体から漂っていた。

ー幕ー

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