その名『 』

「もうし……」

 ふいに聞こえた声に、夏目は足を止めた。

 酷く嫌な予感がした。

 ざぁっと周囲の音が消え、空気の質感が一瞬で重く冷たい物に変質してゆく。

 人には見えぬモノたちを見てきた経験上、これは危ない物だと本能で感じた。

 からん、ころん。

 背後から近づく音に、背筋が泡立つ。

「夏目貴志殿ですか」

 ばっと振り返ると、薄らと笑みを浮かべた男が立っていた。

 深い漆黒の長い髪と同じ色の衣。それと対照的な抜けるように白い肌に整った顔立ち。

 そして、切れ長の赤い瞳。

 とても美しいが、纏う空気は人とは思えない禍々しいものだ。

「友人帳をお持ちですね」

 すっと白い手が伸ばされる。

 まずい、と半歩後ろに下がった瞬間。

!!」

 鋭い声と共に、ぶわりと目の前に白く純白の獣が姿を現した。

「ニャンコ先生!!」

 人の体躯よりも大きく、純白の毛皮に赤い隈取りの獣は、夏目のよく知る最も信頼できる妖である。

 男と夏目の間に割って入った斑は、低い唸り声で男と対峙する。

 祖母の残した友人帳は、名を取られた妖怪を使役することができ、中にはそれを悪用しようとする者もいる。

 ぎゅっと友人帳の入っている鞄を抱え込み、夏目はごくりと生唾を飲み込む。

「っぷ」

 聞こえた声に、夏目は思わず目を見張った。

 見れば、漆黒の男がふるふると肩を震わせている。

 訳が解らない夏目だったが、先ほどのうすら寒さどこかへ行ってしまったようで、周囲の空気は元に戻っている。

 ぽかんとしている夏目とは対照的に、男は堪え切れないとでも言うように腹を抱えて大笑いしている。

 ちらりとニャンコ先生を見れば、ぐるぐると唸り声を上げている。

「あの斑がニャンコ先生……っぷ」

 しばらく笑っていた男が落ち着いてきたのを見計らって、夏目が恐る恐る話しかける。

「えっと貴方は」

「あぁ、驚かして済まなかったな。我が名は、以後お見知りおきをレイコ殿の孫よ」

 先ほど、しっかりと夏目のフルネームを知っていたというのに、随分と遠まわしなその言い方が引っ掛かる。

「もしかして、貴方も友人帳に名前があるんですか?」

 先ほど友人帳を狙って来たのだし、そう問えばあっさりとは頷いた。

「あぁ、随分と昔にレイコ殿に名をくれてやったのさ。我が名を預かるのがどんな者か見てみようと思って来てみれば、なかなかに見どころがあるようだな。あの斑が『ニャンコ先生』か」

 相変わらずくすくすと笑うに、先ほどから唸っていた斑が口を開く。

「いい加減笑うな」

「これが笑わずにいられるか。あの斑が『ニャンコ先生』だぞ? 流石はレイコ殿の孫よな」

 どうにも、雰囲気からするとはニャンコ先生もとい、斑と古くから親交があるらしい。

 普段の依り代の姿を見ていると忘れがちになるが、ニャンコ先生は封印されていても上級の妖怪であり、妖怪たちの間では顔が広い。

「それより、今までどこに行っていた」

 低い威嚇するような斑の声に、は先ほどとは違う妖艶な笑みを浮かべた。

「何故、我が責められねばならぬ。お前が人間などに封印されている長き間、ずっと我は一人で過ごしていたのさ」

 するりと斑の顔には手を添える。

「封印が解かれた時、お前が迎えに来るのが筋ではないのか」

 口調は厳しいが、斑の頤を撫でる手つきは酷く優しい。

「風の噂で白い獣と友人帳を持つ人の子の話を聞いてから、幾日も過ぎた。だというに、一向にお前は我が元へ姿も見せぬ」

 ふっと撫でる手を止め、夏目に深紅の瞳が向けられる。

「どれだけ待とうとも、お前が来ぬならば……我が名を取り返し、友人帳を持つ人の子を食らってやろうと思うたのよ」

 すっと細められた細い瞳孔の目は最初と同じ、ぞくりとするほど冷たく重いが、その視線も一瞬の事だった。

「だが、お前を見たら……それもどうでも良くなった」

 大きな斑の首筋に、は手を回して純白の毛並みに顔を埋める。

 純白の獣に、漆黒の美しい男が寄り添う。

 とても美しい情景ではあるが、夏目はふーっと溜息をつく。

 どうにも痴話喧嘩をしているバカップルにしか見えないのは、己の目が悪いのか否か。

「で、名前を返して欲しいんじゃないのか?」

 夏目の声に、寄り添っていた一人と一匹が顔を上げる。

「そういえば、お前レイコに名前なぞ取られていたのか」

 斑の問いにはゆるゆると首を振る。

「言ったろう? レイコ殿にくれてやったと。あれほど力強い人間も珍しかったし、名前一つで満足するのなら、それもよかろうと思ってな」

 目の前のは懐かしそうに眼を細め、夏目を見つめる。

 名前を預かるということは、その名を持つ妖怪を殺すこともできるのだと聞いた。だというのに、このはあっさりと名前をくれてやったという。

 祖母が片っぱしから妖怪の名を奪い、友人帳を作ったのは寂しいからだったのかもしれない。

 そして、この男は心からレイコの事を気にかけてくれた、数少ない友人なのだろう。

「我が名はそのまま預けておこう」

 の言葉に、夏目と斑は大きく目を見開いた。

「お前……」

 ぐるぐると唸る斑を撫ぜながら、は笑う。

「友人帳を持っていては妖怪に狙われる日々なのだろう。ならば我が名を返すのは、その友人帳に他の名がなくなった時で構わぬ。レイコ殿のよしみで力を貸してやる故、何時でも我が名を呼ぶがいい」

 の言葉に夏目は何ともいい難い、暖かな気持ちになる。

さん……ありがとうございます」

 優しい祖母の友人の名を改めて呼ぶと、はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。

ー幕ー

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