月下の宴

 まあるい、大きな月が空に浮かんでいる。

 森の中の開けた場所では、月に誘われて集まった異形の者たちの宴が催され、大層賑やかであった。

 妖怪たちの輪から少し離れ、は斑と共に酒を飲んでいた。

「用心棒がこんなところに居てもよいのか」

「たまの息抜きも必要だ」

 そうのたまう斑は、いつもの招き猫の姿ではなく本来の巨大な白銀の獣の姿となって、柔らかな草の上にうつ伏せになっている。

 はそんな斑の腹の辺りに背を預け、先ほどから一つの杯で酒を飲み交わしている。

 たまの、と斑は言ったが夏目の話を聞く限り、泥酔して明け方に帰ることも珍しくはないらしく、そういう時に限って妖怪に狙われるとぼやいていた。

 仕方ないな、と呆れ半分で溜息をつくと、斑はこつりと鼻先での手を小突く。

 満たされていた酒は既になく、徳利からなみなみと注いでやれば、斑の体と不釣り合いな小さな杯から舌で酒を舐めるようにして飲み始める。

「もう、名を返してもらってもいいのではないか」

 斑の言葉に、は首を傾げる。

「最後で良いと孫殿に言ったばかりだが」

 友人帳に記された名を返そうと奮闘する夏目の元には、数多の妖怪が集まる。

 ただ名を返して欲しいとやって来る者だけではなく、名を奪われたことに恨みを持つ者、友人帳を悪用しようとする者。

 夏目が悪用する気がないのだし、ならば使役されてやってもよいと、玲はいまだに友人帳に名を預けっぱなしにしている。 それに、だけが奇特なわけではなく、三條も名を奪われながら夏目を気に入って友人帳に名を残していた。

「あれは少々危なっかしい。妖怪に友人帳が奪われたこともあるし、今後払い人どもとの接触があれば人からも狙われる」

 斑の言葉の意味は解る。

 名を記した紙は、命その物なのだ。

 本来なら簡単に殺してしまえる人の手でも、紙ならば簡単に妖怪を殺し、そして使役することができる。

 今後、夏目が何らかで命を落とし、他の妖怪や強欲な払い人の手に友人帳が渡ってしまえば、の名は戻ることがない。

 名を戻すことができるのは、夏目の唾液と息。夏目が死んでしまえば恐らく、代わりとなる者もいなくなる。

 それを、危惧しているのだろう。

「その孫殿をお前が守っているのだし、私もみすみす名を他の者にくれてやる気もない」

 杯の底に残った酒では喉を湿らせる。

「全く……夏目が死んだら今度こそ一緒に燃やされるかも知れんぞ」

 鼻に皺を寄せた斑にはくすくすと笑う。

「それならそれで良いのさ。妖怪や払い人どもに奪われるくらいなら。レイコ殿が死んだ時に、友人帳も燃やされて灰になるかと思っていのだから」

 他の妖怪は堪ったものではないだろうが、にしてみればそれでも良かったのだ。

 妖怪が見えるが故に寂しい思いをしたレイコと共に、妖怪が一緒に灰となれば、少しはあの世とやらでも寂しくないだろう。

 そう言うと、不意に斑が起き上がる。

 背を預けていた支えがなくなって、慌てて体勢を立て直そうとするがそれよりも早く、斑の前足が動いた。

 は巨大な前足に肩口を押さえつけられ、仰向けに地面に縫い付けられる。

 巨大な前足に力が込められていないので重くはないが、自然と斑を見上げる格好となり、薄く開いた口からは鋭い牙の列が見える。

「そんなに灰となりたいのなら、この場で喰ってやろうか」

 ふーっと荒い息遣いが迫り、は前足で押さえられていない片手で斑の顎に手を伸ばす。

「お前の血となり、肉となり、妖力となって……そうして生きるのも良いかもしれないな」

 妖も死ぬ。

 どれほど力を持っていても、長命であったとしても、いつかは何らかの形で消えていくのだ。

 の命は夏目の元にあるが、幾ら名前がそこにあったとしても、ここで斑に喉笛を咬み切られたら流石に死ぬだろう。

 直ぐ目の前にある斑は僅かに目を見開き、肩を押さえていた前足をどかした。

「喰わないのか?」

 言うと、斑は鼻に皺を寄せて笑った。

「あれが死んだら友人帳は私の物だ。今ここで食らうより、友人帳を手にしてお前を手元に置いた方が楽しいからな」

 猫のように鼻の先を擦り寄せて来る斑の顔を、は優しく撫でる。

「それまであれの傍にいて、お前の名も守ってやろう」

 斑は先ほどと同じ様に寝転がり、も体を起こし転がった杯を拾って元の位置に戻る。

 玲は再び徳利から酒を注いで差し出すと、舌を出して満足そうに斑は酒を飲み始める。

「まぁ、生きていないとこうして飲む事を楽しめないな」

 の言葉に、斑はくつくつと笑う。

「生きている事も悪くないだろう」

 違いないと、も笑ってちろりと杯の底に残る酒を舐めとる。

 甘い酒の香りと、斑の体温が暖かい。

 今宵の月はいつにも増して美しく、世界を照らしていた。

ー幕ー

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