鉛のように重い体を引きずるようにして、は森の中を歩いていた。 普段なら風のように、軽々と木々の間を飛びまわれるというのに、それができない事が口惜しい。 ぼたぼたと流れ出る血が、漆黒の着物に吸い込まれ、吸いきれなくなった分は地面に落ちていく。 妖怪といっても血は流れるし、妖力がなくなってしまえば決して不死身ではない。 ――忌々しい。 「凄まじい臭いだな」 不意に聞こえた声に、は身構える。 視界が歪むが、それでも睨むように目を眇めると、真っ白な体躯の獣がこちらを見ていた。 人を食う妖も居れば、妖を食う妖も居る。 は妖の中では上位に入るため、手負いの今なら恰好の獲物となるのだろう。 「……退け」 手足の感覚も麻痺している今、そんな言葉がどれほど相手に効力を発揮するか甚だ怪しい。 声に力も入らず、白い獣は嗤ったように見える。 「よくそれで大口を叩けるものだ」 余計な御世話だと言いたいところだが、実際言葉を話すのも億劫になっている。 長き世を生きてきた今、未練などなくいっそこのまま食われても構わないかもしれない。 力があるが故に、人からも妖怪からも狙われ、ずっと一人で生きてきた。 「食らうなら食らえばいい……」 その代わり、この意識も魂もくれてやるものか。 なんだか笑えて来て、くすくすと声を漏らすと傷口からじわりと血がにじむ。 「この期に及んで嗤っていられるとは、妙な奴だ」 ゆっくりと白い獣はこちらに近づいてくる。 霞む目には、差し込んだ光に照らされる純白の毛は酷く眩しい。 生温かい獣の吐息が近づいてきた所で、ぷっつりと意識が途切れた。 日の光が暖かく、何も見えない視界が眩しいほどに白い。 人は死後の世界――極楽に行く者がいるというが。妖怪は果してどうなのだろうか。 もっとも、妖怪も死後に極楽と地獄があったとして、今まで人も妖怪も殺した事がある自分が極楽に行けるとも思わないが。 「ならば……地獄か……」 あんなに辛かったというのに、今は思ったよりも声を出すのが楽だった。 「地獄を見たかったのか」 不意に聞こえた声に、反射的に目を開けると、さらに目に痛いほど眩しい白が目の前に広がっている。 何度か瞬きをしてようやく目が慣れると、それが純白の毛皮なのだと解る。 「残念だったな。死んでいなくて」 ふふんと鼻を鳴らしたのは、純白の毛並みに朱を刷いた文様が浮かび上がる、優美な獣であった。 声とその色からすると、意識を失う寸前に見たあの獣であるらしい。 背丈は平均的な人間と同じくらいのより、二回り以上も大きい。 そして、丁度その体躯に寄り添うようにして、は横たわっていた。 反射的に起き上がろうとして、ぐっと息が詰まる。 「無理に動くな。高位なだけあって驚異の回復力だが、まだまだ動ける状態ではないぞ」 起き上がりかけて硬直した体を、ふさりとした尻尾が柔らかく押し返し、再び獣の体躯に背を預ける。 「食わなかったのか……」 「私は人を食う妖怪だからな。妖怪を食う趣味はない」 口ではなんとか言いながら、こうして寄り添っているのを見る限り、高位でありながら世話焼きであるらしい。 その好意はありがたいのに、また人や妖怪に追われる生活が始まるかと思うと、やはり生きていない方が幸せだったのかもしれない。 「それにしても、酷い怪我だな。払い人に追われたか?」 その言葉には薄らと笑う。 「人の形を取るが故に、式に丁度良いのだそうだ」 特に、高位の妖怪であれば、人として生活しても人に見破られる心配もない。都合のよい道具になるのだと人は言った。 かといって同胞と言うべき妖怪は、食らえば素晴らしい力を手に入れられると、食らおうとする。 相手にするのが面倒で姿を眩ませても、直ぐに別の者が追ってくる。 かといって、相手をしてやったところで、これまた次から次へと同じような輩が湧いて来る。 何時からだったかはもう解らない。 今までは、そんな輩にこの体をくれてやるものかと、意地になっていたがそれももうどうでも良いのかもしれない。 助けてもらって申し訳ないが、この先を生きていく気力がなく、は僅かに眉根を寄せた。 その時、背を預けていた白い獣が僅かに体を動かした。 起き上がるのかと思い、慌てて体を動かそうとしたが、尻尾で器用に動きを止められた。 少しもぞもぞと動いて動きが止まると、獣は先ほどよりもを抱えるようにくるりと丸くなる。 先ほどよりも近い位置にある顔に覗き込まれて、は僅かに目を見開く。 大きな瞳は日の光をそこに集めたかのように美しい色をしている。 そして、首筋の毛と尻尾に包まれて先ほどよりも暖かい。 「怪我が治るまではこうしていてやる。寝ていろ……後はそれから考えればよい」 先ほどよりも存外柔らかく細められた瞳と、その言葉には数度瞬きを繰り返した後、ぷっと小さく噴き出す。 まだ傷が癒えていないため、笑うだけでも引きつるように痛いが、それでも笑いが止まらない。 獣の方はそんなの様子に目を見開いたが、やがてぷいっと視線をそらす。 何だかんだ言ってやはりこの獣はお人好しらしい。 このまま死ぬのは簡単だが、折角の獣の好意を無駄にするのは忍びなく、そして暖かく柔らかなこの毛の感触を手放すのも惜しい。 は少し体を横にして、寄り添うようにして獣の体に身を預ける。 「ありがとう。その言葉に甘えて、しばらく寝かせてもらう」 の言葉に、獣はそっぽを向いていた顔をこちらに寄せて、金の瞳をゆるりと細めた。 「ゆっくり休め」 この声に、は次第に重くなる目蓋をそっと閉じる。 今なら、久々にゆっくりと眠る事が出来る。 暖かい獣の毛と日差しに包まれて、の意識は白い闇にゆっくりと落ちて行った。 ー幕ー |