大切な名前

 がさがさと茂みの中を走りながら、時折後ろを振り返る。
 背後からは、夏目の足と同じくらいのスピードでこちらを追う、妖の姿があった。
 夏目自身、妖を殴ったりする程度の力を持っているが、相手がどういう者か解らない以上、迂闊に手を出すのもためらわれる。
 そして、こういう時に限って自称用心棒のニャンコ先生はいないのだ。
「うわっっ!!」
 木の根に躓き、夏目は受け身を取るも背を打って呻いた。
 その間にも、黒い影はこちらに迫り、しまったと思う間もなく巨大な手に鷲掴みにされる。
 腕を押さえこまれているが故に反撃もできず、流石にまずいと本能が警鐘を鳴らす。

「ユウ……ジンチョウ……」

 ぼそぼそと囁くような声と共に、ぎりぎりと手に力が込められた時だった。
 不意に戒めが解け、夏目は地面に尻もちを付く。
 痛みよりも何が起きたのかと顔を上げれば、視界に真っ黒な装束が翻る。
「レイコ殿の孫よ。折角友人帳を持っておるのに、何故名を呼ばぬのだ」
 呆れたような声と共に、深紅の瞳でこちらを見下ろしているのは、名をという。
 かなり高位の妖であるらしいが、自ら進んでレイコに名を渡し、夏目に協力してくれるという点で妖怪の中ではかなり危篤な存在である。
とはいえ、夏目にとっても祖母のレイコにとっても彼は数少ない友人であり、何かと頼りにしていた。
さん」
 は先ほどまで夏目を締め上げていた巨大な手を、軽く踏みしめている。
 下駄の歯で押さえているだけだというのに、巨大な影は僅かばかり体を動かすだけで、によって動きを封じられてしまっているらしい。
「こやつの名は友人帳に載ってはおるまいよ」
 はすっと影のような妖に手を翳し、何事かを呟く。
 すると巨大な体はみるみる小さくなり、小さな声を発して木々の間をすり抜けて消えてしまった。
「ありがとう」
 礼を言って立ちあがり、制服についた土を払う。
「それにしても、本当に妖怪に絡まれるな」
「別に好きで絡まれてるわけじゃ……」
 存在を無視しようにも視界に入るし、視界に入ってしまうと自然と目も合いやすい。
 おまけに、友人帳を手にしてからは、名を返してもらおうと寄って来る以外にも、それを狙う者まで様々な妖怪に狙われている。
 友人帳は大切な物だが、こうも絡まれると恨めしくなる。
 夏目の表情を見てか、は口元に笑みを浮かべてそう言った。
「会ったこともない、事情も知らぬ妖怪の名を後生大事に持っているのも面倒よな。いっそ、燃やしてしまったらどうだ」
 随分と投げやりな言い方だが、この友人帳の中にはの名も含まれている。
 ただの紙の束だが、これは妖怪の命そのものであり、燃やしてしまったらここに書かれた妖怪たちは死んでしまうのだ。
 は妖怪なのだし、名前を預けたのだからそんなことは夏目よりも解っているだろう。だが、ふとたまにこの世から友人帳が消えることが願うかのようにそんな事を言う。
 だがそれは、どうにも友人帳自体が消えてほしいのではなく、友人帳が消えることで自分が消えることを望んでいるようでもあった。
 祖母のレイコに自ら名前を差し出した彼のことは、深くは知らない。
 だが、崩れてしまいそうなほど儚い、さびしげな表情を浮かべる時がある。それを見ると、夏目は自分がどんなに危ない目に会ってもやはり、の名前がある友人帳を手放すことが出来ないと強く思うのだ。
「燃やすなんて、そんなことはできません」
 はっきりというと、僅かには目を見開いた。
「レイコさんの友人、さんや他の妖怪たちを殺すなんてできません」
 は見開いた目を僅かに細めた。
「その友人らのせいで、お前が辛い目にあってもか?」
 たしかに、何度も危ない目にあって来た。
 妖怪なんていなければいいのにと思ったり、こんな力がなければ良かったのにと考えたことは、何度もある。
 それでも―――

「えぇ、俺にとっても大切な友人ですから」

 はっきりと言うと、は考え込むように目を伏せ、やがて深くため息をついて空を見上げた。
「まったく……祖母が変わり物なら孫も変わり者だな」
「何とでも言ってください」
 二人で見上げた空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

ー幕ー

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