大空の抱擁

「それで、逃げてきたと……」

 呆れたの声に、目の前にいる男はしれっとして答えた。

「逃げたのではない。『正式』に引継ぎをして来たのだ」

 これだけ堂々としているのに、妙に胡散臭く見えるから不思議だ。

 純和風の屋敷に似つかわしくない、黒尽くめの大層仰々しいマントを着込んだ男は、名をジョットという。

 黄金色の髪と色素の薄い瞳を持ち、遥か遠い海の向こうにある伊太利亜という国で、絶大な権力と名声を得た男である。

 全てを包容する大空と称され、敵・味方・職種など関係なく人を集め、ボンゴレファミリーという巨大な組織を作り上げた若きボス。

 己もという組織を一代にして築き上げ、規模こそ違えどそういう意味ではボンゴレとよく似ていた。そのせいか国こそ遠く離れているが、助け合ってずっと関係を保っていた。

 連絡は取り合ってはいたが、ジョットが唐突に日本のに来たのは、つい先ほどのことだった。

 何でも日本に行きたくなり、ボスの座をさっさと任せて一人で渡航してきたらしい。

「日本に来るだけに、ボスの座を譲らなくてもいいだろうに」

 ボスという忙しい身ではあるが、その気になれば時間も作って旅行ぐらいは出来るだろう。の言葉に、今度はジョットが溜息をつく。

「本当にそれだけだと思うか?」

 じっとこちらを見つめるジョットに、はしばし考えたが首を横に振った。

「私に、大空の天候までは分からない」

 きっぱりと告げると、再び盛大なわざとらしい溜息を吐き出した。

「わざわざ、ボスを辞めて海を渡ってきたというのに」

「嫁探しにでも来たのではないのか」

 黒髪に黒い目の東洋人は大陸の人間からすると、大層神秘的で美しく思えるのだという。過去に伊太利亜に行った際に、見かける女性に声を掛け捲っていたジョットを見るに、その可能性は高い気がする。

 胡乱気なの視線にもジョットは何やらぶつぶつ言っていたが、徐に手が伸ばされる。

「声も大分限界が来ているのだろう」

 ジョットの手によって喉元をするりと撫でられ、はびくりと体を震わせる。

 の最大の力は、『言霊』と呼ばれる声を使った能力だ。

 言葉には古くから力があると信じられて来た、日本だからこその術で、大陸では催眠術と呼ばれるらしい。

 言葉によって人を思いのままに操る術は、強い力を持つが故にそれを使うには負担が掛かっていた。

 最近でこそ、どちらの組織も安定したが、そうなるまでにジョットもも力を振るった。

 そのせいか、以前ほど強い言霊を発することが難しくなっている。

「今まで苦労掛けさせた分、お前に楽をさせてやろうと思ってな……」

 無理をして声を出していたのも、最初から気づかれていたのだろう。

 超直感といっただろうか、こういう時ジョットの能力は面倒だ。

 自身の声が使えなくなっても、既に実子でないが後継者はいる。

 ただ全てを任せるには、ボンゴレほどこちらの組織は整ってはいないし、次代はまだ幼い。

 その辺りもジョットは気にしているのかもしれない。

 ジョットの言葉に偽りはないが、は素直に喜ぶことはできなかった。

 小さな島国は大陸の組織に脅かされやすく、ただでさえ新興の組織は潰れやすい。

 さらに言えばの能力は使い方次第では恐ろしい兵器になりうるため、それを狙ってくる輩も後が絶たない。

 出来れば誰かに縋りたいが、当主としてそれをずっと拒んできた。

 一度縋ってしまえば、その手がなくなった時を考えるとどうしても素直に言葉を受け取ることができない。

 窮屈だが籠にずっと収まっていれば、自由な大空を知らずに生きて行ける。

 その籠が世界の全てと思えば、どんなことも耐えることができる。

「お前も疑り深いな。U世がボスになったということは、ずっとこちらに居られるのだぞ。誰に気を使うこともなく、邪魔をされることもなくお前の傍にいられる」

 は僅かに眉根を寄せる。

「残されたボンゴレが大空を手放すとは思えぬがな」

 U世も守護者もボスの性格は分かっているのだろうし、日本に追っかけて来ないところを見るともう諦めているのかもしれないが、それでも初代の威光という物は強い。

 眉根を寄せた眉間に口付けが落とされ、ジョットを見ると吸い込まれるような瞳とかち合う。

「今まで、ボンゴレを抱擁する大空だったがこれからは、お前が羽を伸ばすための大空となろう」

 耳に直接吹き込まれた言葉は、やけに抗いがたい。

「この手を取るなら、お前は俺が檻から出してやる」

 駄目押しとばかりに囁かれる優しいテノールと差し出された手に、はふるりと体を震わせる。

 遠く海の分かたれた距離はどうしても埋められることもなく、同じ大空の下だというのに手も声も届かない。

 互いに火急の時はあれこれと手助けはしていても、顔を合わせることなど一年に一回あるかないかで、手紙などで気遣ってはもらっていたがやはり心細い物であった。

 差し出された手を一度取ってしまえば、自由な大空を知ってしまえばもう檻で耐えることはできない。

 今までだって、一人でどうにでもなって来た。

 だったらこれからも、一人でどうにでもなるはずであった。

 しかし、今目の前には全てを抱擁する自由な大空が広がっていた。

 差し出された手に恐る恐る手を伸ばすと、ぐいっと強く手を引かれた。

「大空はお前の上にある。存分に自由に羽ばたけ」

 ふっと憑き物が落ちたように軽くなった気がして、力を抜いて力強い腕に身を任せる。

 優しく髪を撫でられ、はゆっくりと目を閉じる。

「ありがとう」

「お前は欲がなさすぎる。存分に甘やかしてやるから覚悟をしておけ」

 満足げなジョットの声にはくすくすと笑う。

 同じ大空の下でも、今度は自由に羽を伸ばせる気がした。

ー幕ー

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