Spring sound

 それは、三百年ほど前、雁が立ち上がって二百年経った時のこと。

 延王こと、小松三郎尚隆は今日も今日とて玄英宮を抜け出すと、関弓の街に降 りてきていた。

 無論、業務を投げ出してきているので、今頃大騒ぎしているのだろうがそんな ことは知った事ではない。

 優秀な官が多いので王いなくては成り立たぬ、と言うわけでもなし。

 こうして平和に暮らす人々の様子を見て回るのが、尚隆の趣味であることを官 も知っている。

 人々の憩いの場とも言うべき小さな広場で、ふと尚隆は足を止めた。

 人垣が出来たそこから、聞こえてくる歌と音色が懐かしい物だったからだ。

 四つの季めぐりめぐり 春さり来れば 花咲き 散り乱れ

 空蝉の人の心もさまよひ出でる……

 大きな声ではないが、響く凛とした声は美しく、怪しい艶かしさを秘めている。

 しかし、ここで重要なのは歌の旋律や言葉回しが蓬莱の言葉だった事である。

 ここ雁では海客を優遇しているだけに、比較的他の国よりも人数は多いが、それ でも珍しいといえば珍しい。

 そっと人垣の間から覗けば、そこにいたのは二十そこそこの青年であった。

 男だと言う事は顔立ちから解るのだが、整いすぎている顔立ちときめの細やかな 白い肌。

 筋肉などのないほっそりとした体つきとその物腰から、女のようにも見える。

 ひらひらとした鮮やかな衣が動きに合わせて翻り、皆一様にしてじっとその姿を 見つめていた。

 やがて舞いが終わると、一泊ほど遅れて拍手が沸き起こり、銭が前の箱に次々と 入れられた。

 人も掃けた所で、尚隆はようやく声を掛けた。

「お前は海客か?」

 麗人は驚いた様にこちらを見て、それから花が咲くように笑った。

「えぇ。貴方もですか」

「そうだ。楽は良く解らんが、こちらと蓬莱の曲の違いぐらいは解る」

 同郷の者と会えたというのと、麗人ということで―本当はこちらの方が大きい― 食事を一緒にすることになった。

 適当に注文を取って、先に来た酒に口をつけながら、尚隆はこちらでの生活を尋 ねた。

 自分は王としてここに来た為、普通の海客の生活を知らない尚隆にとっては丁度 良い情報源である。

「他の海客の方はどう生活しているのか解りません。私は奏に辿りつきまして、と ある方の計らいで仙籍に入ってから旅をしておりますので」

 麗人の名はと言い向こうにいた時から、手持ちの楽器と少しの身の回り品だけ を持って、先ほどのように金を得て流れていたらしい。

 尚隆も出歩くのが好きだが、流石になかなか遠出は出来ないのでのような生き方は少し羨ましかった。

 出来るとしても倒れかけている国に赴いて、様子を見てくるぐらいだがそれでも 朱衡に怒鳴られるのだ。

 流れている者なら、色々な国の人々の生活などからその国の状態が掴める。

 仙籍に入っているはこちらに来てから三百年も流れているというのだから、ま だ二百年の尚隆よりも百年も前に来ている計算だ。

 おそらく国の衰退や国の成り立ちなどを見て来たに違いないと思って聞くと、 は苦笑した。

「私はあまりそういう国へは行かないのです。それでも長く続くかそうでないかぐ らいは解るようにはなりましたが」

「そうか。この国はどう思う」

 尋ねると、は少し悩んで口を開いた。

「おそらく長く続くと思います。来た時に見て回りましたが下の方の役所もしっか りしていますし。ただ……」

 はそこで言葉を切って、言うかどうしようかという表情になったので尚隆が促 すと、再び口を開いた。

「危うい影はあります」

「危うい影?」

「はい。なんと申しましょうか……何となくそんな物を感じ取ったのです。流れ者 の戯言と思って下さい」

 冷酒に口を付けて息を付いたは、朱を引いたような唇に笑みを乗せた。

「国の事を聞きたがるということは、もしかして高官の方ですか」

 ただの海客にしては観察眼は鋭い。隠そうともせずに、尚隆は頷いた。

「そうだ。雁国王の延」

「何となくそんな気はしたのですが、あっさり名乗られるとは思いませんでした。平 伏もせずに申し訳ございません」

「いや、平伏は鬱陶しいだけだからな。まぁ、お前にされる分にはよいかも知れんが」

 言えば、は鈴を転がす様に笑った。

「利広の言う通りの方ですね」

 その名には心当たりがあった。

 毎回倒れそうな国で出会う男のことである。奏に流れ着いたというので、繋がりは あってもおかしくは無い。

「名は風漢とお聞きしておりましたが、口ぶりから王であると思ったのですよ」

「そうかならば話は早い。、六官長の椅子が余っているんだが座る気はないか?」

 散歩でもするかという調子の尚隆に、は笑った。

「向こうでも政治の中枢にいた事はありますが、私には向かないようですのでお断り させて頂きます。奏でも範でも誘われましたがお断りしてきましたし」

 しかし、尚隆は腕組みしてふむと唸った。

 昔に政治の中枢という事と出来たばかりの範だけでなく、奏まで誘ったと言う事は それなりに出来た人物というわけだ。

 雁は地固めは出来ているが、こと式典や儀式などおおよそ風雅に関する春官長の座 が空いている。

 式典など、といってもやはり豊かになればそう言った事をするゆとりが生まれ、必 要なのだ。

「春官長辺りならどうだ? 高官だが政治を直接握るわけでもない」

「先ほどの話お聞きになられました?」

「聞いていたぞ。ただ、範や奏が気に入ったぐらいの人物だからな。折角釣り上げた 魚をそう簡単に手放して溜まるか」

 私は魚ですか、とでもいいたげに、はじっと尚隆を睨んで来たが、あまり迫力はない。

「嫌だと言うのなら官達に『お前が官にならぬから仕事をせん』と駄々を捏ねてやる。 多分台輔も乗るぞ」

「大人気ない……」

 呆れ顔のに、尚隆はなんとでも言えと言わんばかりに笑みを深くした。

 本当にという人物は面白い。確かに官としての度量も器量もあるが、それだけで はない何かを秘めている。

 そんな所に範も奏も魅力を感じたのかもしれない。

「うちの官はしつこいぞ」

「逃げ切ります」

「国境に衛士を置いて旅人を見張らせるか」

「鬼ですか」

「王だな」

 つまらない言合いに、は笑った。

「自由の代償は何ですか?」

 すっと目を細めたは試す様に尚隆を見た。

 官位に着くのは、自由と引き換えにするほどの価値がどれだけ尚隆という人物、果 ては雁にあるのかという事だ。

「お前を退屈させない、というのはどうだ。政というのはそういう意味では酷く面白 いぞ、特に雁ではな」

 しばらくお互い探る様に見つめた後、笑い出す。

「良いでしょう。もう一つお願いがあります?」

「なんだ。できる事であれば何でも聞こう」

 できる事ならば、と丁寧につける辺りは抜け目ない。

「では……」

「なーいる?」

 ひょこっと唐突にやって来た六太に、顔を上げたは小首を傾げた。

「いかがなされました?」

「あぁ、忙しかったら良いけどちょっと出て来いよ」

 やけに楽しそうな六太に首を傾げつつ、丁度書類も片付いたのでは六太の後に着いて行く。

 辿りついた先で懐かしい香りが鼻先を掠めた。

 暖かく柔らかな匂いは、懐かしい故郷の花。

「来たか」

 木下に満足げに笑う尚隆の腰ほどの高さしかない、小さな細い桜の木であった。

 小さいながらもみっしりと花を付け、はらはらと花弁を散らす様は十分見ごたえのあ る。

 下を見れば既に酒瓶やらつまみやらが用意されていて、花見状態である。

「どうなされたんですか?」

 が尋ねると、尚隆は腕を組んだ。

「お前が見たいというから、里木で種を願ってみた。まぁ民は新しく実った物が、食物 の実らぬ木でがっかりしただろうがな」

 どうやら大分前に種を撒き、を驚かせようとこっそり尚隆と六太で世話をしてここまで育てたらしい。

 無論、二人だけではないのだろうが、何だか国の二本柱がせっせと水をやっている姿 が目に浮かんでは笑った。

「ありがとうございます」

 頭を下げると、満足げに二人は頷いた。

「折角だからな一曲、礼に何かして貰おう」

「笛でよろしければ」

 は二人が頷いたのを見て、笛の吹き口に唇を付けゆっくりと息を吹き込んだ。

 妙なる笛の音が春の風と共に天高く昇って行った。

Cherry blossoms are in all their glory!

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