部屋を出て行く紅竜王―――竜堂続の姿を眺めながら、は顔を伏せた。 隣にいた藍采和が気遣うように肩に手を置いたのが解るが、今は顔を上げられそうにはない。 宴会騒ぎの延長の雰囲気だった会議も今やしんと静まり返り、竜王たちと漢鐘離のやり取りを眺めている。 と竜王の関係を知る仙がこちらを見ている。 三千年前、竜王の臣として仕え、竜王が転生を待つ間は仙として三千年を過ごしたは、どちらの言い分も理解できる。 本来は、人間の世界の事に仙は手を出す事はしないのが当たり前なのだ。 だが、牛種が人間界を支配してさらに崑崙をはじめとする天界を手中に納めようとしているのは、見過ごすわけにはいかない。 今、仙達はどう動くかを考えあぐねているのである。 そもそも、竜王たちがこの崑崙に来る事さえ反対する者がいた。 漢鐘離は口で何だと言いながらも、どちらかと言えば竜王たちの味方である。恐らくきつい言葉を使っているのも、竜王たちの考えを確認したいだけなのも解っている。 記憶のない竜王たちからしてみれば、過去の牛種との因縁に巻き込まれるのはさぞ迷惑な話であるのは重々承知だったが。 だが、 ―――好きこのんでこんな風に生まれてきたわけじゃない 実際にその言葉を聞くと、思っていた以上に胸が抉られたように痛む。 転生する竜王たちを待つと決めてから、はずっとこの時を待ち望んでいた。 だが、竜王たちにとってはそれこそが迷惑な話なのだろう。 紅竜王が去った後も、青竜王と漢鐘離の話を続いるが、はそっと立ちあがる。 「西王母様には伝えて置きます」 藍采和の言葉に一つ頷き、失礼なのは解っていたがそのまま広間を退出した。 会議室を出て、は人気のない庭の奥へ進んで行く。 「はっ……」 は嗤う。 結局、竜王の為と言っておきながら自分のためなのだ。 自分を昔の様に必要としていて欲しい、竜王たちともう一度幸せに過ごしていたい。 そんな自分の存在意義と願望の為に、竜王を利用しようとしているだけ。 己の滑稽さと浅はかさに、吐き気がした。 「結局……三千年前と変わっていないのは私だけ……」 一番紅竜王に責められるべきは自分なのかもしれない。 いつの間にか、弱水を湛える池の縁へ辿りつく。 神仙であっても、溺れては戻ることの敵わぬ水の底。 いっそこの中に沈んでしまおうか。 池の縁に座り込み、そんなことを考える。 危うく溺れかけた白竜王を心配する者は居るが、今の己にそんな者は居ない。 静かな水面には情けない自分の姿がある。 ゆっくりと手を伸ばしたところで、不意に体が後ろに引き寄せられた。 「何をしているんですか」 懐かしいその声にが振りかえると、そこには紅竜王の姿があった。 は慌てて頭を下げようとしたところで、すっと伸びてきた指で目元を拭われる。 その行動に何事かと固まっていると、紅竜王は僅かに顔をしかめた。 「気づいていないんですか」 そっと自分の頬に手を伸ばすと僅かに濡れていて、自分が泣いていた事に気づく。 慌てて袖で涙を拭い、は頭を下げる。 「見苦しい姿をお見せして申し訳ございません」 紅竜王から声を掛けられた嬉しさと共に、昔を覚えていない事に対する現実に再び胸が痛くなる。 こうして声を掛けてくれたのも、弱水の傍で泣いている姿を奇妙に思ったからだろう。決してそれ以上の事はないのだから、余計な期待をするなと自分に言い聞かせる。 「私はこれで……」 失礼だと思いながらも袂で顔を覆ったまま踵を返したところで、強い力で再び体を引き寄せられる。 確かに、紅竜王に記憶はないはずだ。 だが、強くも優しく抱きしめてくれる腕は懐かしく、は思わずしがみつく様に広い背に腕を回して涙を流した。 「ごめんなさい……このような形で転生を望まないのは知っていたのに……!!」 言ってはいけないと思っているのに、の言葉は止まらない。 事情を知らない紅竜王はこんなことを言われても困るだけに違いない。そして、仮にがどんなに謝ったとしても、今の状況を変える事も過去に戻る事も出来ない。 軽蔑されるのが怖い、もう二度とこの様に声すら掛けてくれないかもしれない。 「三千年間待っているだけで、何も出来なかったのは私の方なのです……牛種の動向を知っていながら、また戦に巻き込んでしまう。私に力がないばかりに……」 だが、謝らずには居られなかった。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」 「落ち着いてください」 ぐいっと俯いていた顎を持ち上げられ、真摯な瞳とぶつかる。 「僕は転生前の事は覚えていません。でも今大事なのはこれからどうするかでしょう」 その言葉に、ははっとする。 「過去に過ちがあったのなら、繰り返さぬようにするだけです。嘆いても過去は変わりませんが、未来は変えられるでしょう」 その言葉はすっと染み渡り、憑き物が落ちたようだった。 「だから、そんなに自分を責めないでください。少なくとも、これから起こる争いは貴方が望んだことではないのでしょう? ならば責められるべきは牛種です」 「紅竜王様……」 そっと涙を拭われ、はふわりと笑った。 「取り乱して申し訳ございませんでした……ありがとうございます」 ようやく落ち着いたらしいその様子に、続はほっと胸をなでおろした。 初めて見た時の、あの沼に沈んでゆくような深い絶望の色は見えない。 遠目で弱水に手を伸ばす姿を見て、背が凍りついた感覚は思い出すと背がぞくりとする。 全く自分の記憶にない人物だというのに、その姿を見た瞬間体が勝手に動いていた。 その体を引き寄せた瞬間の安堵感と、ぬくもりは懐かしいとさえ感じたのだ。 そして流される涙を見た瞬間、胸が苦しくなった時には細い体を強く抱きしめていた。 普段の自分なら絶対にあり得ない行為だが、そのまま放って置く事などは出来なかった。 吐露された悲痛な言葉は、全て自身を責める物ばかりで、聞いているこちらが辛くなる。 事情が解らない物の、過去の竜王に対しての懺悔という事は解ったので、いい加減かもしれないが少しでも落ち着かせなければと、自分でも思いもよらぬほど優しく前向きな言葉が出た。 深く事情を知らないのに些か無責任かと思ったが、こうして笑顔を見せてくれた事に、心の底から安堵する。 「いえ、こちらこそ急に抱き寄せたりして失礼しました。それで……今さらなのですが……」 今さら名前を聞くのも聞きづらいのだが、全てを言わぬうちに心得たように望む答えが返される。 「私の名はと申します。三千年前は紅竜王様に仕えさせていただいておりました」 兄の影響で中国の歴史書などを読んでいるが続だが、藍采和などの名前は知っていてもという名は聞いたことがない。 だが、その響きは何処か懐かしいと思わせる。 綺麗な顔立ちをしているがどう見ても男である。しかし、強い意志を秘めながら、どこか壊れやすそうな危うさがあり、どうにも放って置けない。 「三千年も待っていたんですね」 は少しぎこちなく頷いた。 さきほどの会議での言葉を気にしているのだろう。 「私がお手伝いするつもりで待っていたのに、このように手を掛けさせてしまっては心許ないですね」 また表情が曇るのに、続は慌てて言葉を選びながら目線を合わせる。 「むしろ、謝らなくてはならないのは僕たちの方でしょう。こうして三千年も待たせていたのですから」 三千年と一言でいっても、その年月は不老の仙でも長かったに違いない。そんな時を、あれほど自分を責めてしまうほど思いつめて、ずっと竜王達のためだけに生きていたのだ。 それを思うと、申し訳ない気持ちと半々で嬉しく思う。 「昔と同じような関係は望みません。ですが、これでも三千年の間に積んだ功夫がございます」 だから力を使ってほしい迷惑にはならない、とは頭を下げる。 会ってから数十分しか経っていないのに、泣いているとはいえ男を抱きしめたり、普段の自分なら言わないような言葉を言ったり、絆されている自分にため息をつく。 とはいえ、それを好ましく思う自分もいる。 忘れていても、どこかで記憶として残っているのだろうかと続はぼんやりと思う。 「『知りたい事があったら自分で調べろ』という祖父の格言があるので、ある程度は自分達でどうにかします。でも、協力して頂くのは問題ないでしょう」 「紅竜王様にそう言って頂けると嬉しいです。後で竜王様がたにもご挨拶させていただきます。何より、青竜王様のご意思が一番ですから」 竜堂家は家長の意志が一番に尊重される。なるほど、こういったところは三千年前も変らないらしい。そして、当たり前のようにそう言った竜堂家の家風を理解しているので、逆に気を遣わなくて済む分非常に付き合いやすかった。 そして、恐らく三千年前の自分との関係は、単なる家臣ではなく恋人同士なのだろうと思う。 は先ほど大分取り乱していたものの、そう言った素振りも見せない。 今はまだ直ぐに昔のようにとは行かないが、少しずつ歩み寄っていけたらと思う。 の言うように昔のような関係に戻るかは解らないが、少なくともこの柔らかな笑顔を傍で見ていたいと思った。 |