「珍しいな。お前がここに来るのは」 跡部がそう声を掛けると、はにこやかな笑みを浮かべ、まぁねといった。 本当に、テニスコートに来るのは珍しい事だった。 「飽きられたかと思って、来て見たんだけど……まさかこんな時間までやっていると思わなかったよ」 今フェンス越しに見える、後輩相手に真剣に練習に打ち込む宍戸はの恋人であった。 同性だがそんなことは問題にもならず、お互いがうまく良い関係を築いていたように思える。 しかし、ここ最近の宍戸は変わった。 廊下ですれ違ってもこちらに気付く気配も無く通りすぎるし、普段図書委員 長として遅くまで残るを、部活帰りに拾ってかえるいつものパターンも無くなった。 既に部員は跡部と、宍戸、そして宍戸に付き合っている後輩の三人だけらしい。 「で、あそこまで必死にテニスやっているのはどうして?」 尋ねれば、跡部は驚いたようにいった。 「聞いてねぇのか?」 「だから、何も聞いてないからここに来たんだよ」 笑って返すと、跡部は柳眉を潜めた。 「あいつ、この間の不動峰戦で橘に負けて」 「レギュラーから落ちたと……」 後半の言葉を引き継いだは、練習する宍戸を見つめた。 氷帝での掟。それは公式試合だろうが練習試合だろうが、ただ一度でも負けたらレギュラーの座を外されるという物であった。 厳しいが、それが氷帝の強さでもある。 はしばし宍戸を見つめた後、テニスコートに踵を返した。 「おい」 てっきり宍戸と話でもするかと思っていた跡部は、慌ててに声を掛ける。 「何?」 「何じゃねぇよ。あいつに何か言ってやらねぇのか?」 言えば、は困ったように小首を傾げて見せた。 「特に無いかな? 亮が何も言わなかったのは確かに怒ってるけど、亮の中でテニスが一番大切なのは解ってるから」 少し寂しげに笑ったの手を強く引いて、跡部は己の胸に抱き寄せた。
逃げられない様に腰に手を回すと、が眉間に皺を寄せるのが解ったがそれは無視する。 「俺の物になれよ」 「それは出来ない」 は首を横に振ったが、跡部は憤りを隠せない。 レギュラーから落ちて、宍戸も必死だったのだろう。 だが、それよりも辛かったのは恋人なのに今まで何の相談もされなかっただ。 が宍戸と付き合っている事を聞いたとき、跡部は苦虫を纏めて十匹ほど噛み潰したような思いをしたのを覚えている。 の事を好きだった跡部は、それでもが宍戸を選んだのだから、と諦めたのだ。 「どんな想いで俺がお前を諦めたと思ってやがる」 「うーんそれを言われると弱いけど……亮に振られたとしても、諦め悪いから直ぐに他の人の所へはいけないかな」 の言葉に、跡部は深い溜め息をついた。 「こういう時は普通、んなことわずに流れに身を任せるモンだろうが?」 「俺は簡単に人を好きになったり嫌いになったり、そんな人間にはなりたくないよ。それにあっさりと俺が跡部の事を好きになったとしても、跡部は多分納得しないよ」 全てを見透かすような、漆黒の瞳に跡部は押し黙った。 確かに、宍戸に振られた後でが跡部の元に来ても、それは気持ちの挿げ替え以外の何物でもない。 縋られれば確かに手を差し伸べるだろうが、『代わり』にされるのはごめんだ。 跡部が好きになったはまず、そんなことをしないだろうが。 難儀な奴を好きになったものだと思うが、好きになったものは仕方ない。 「一つ、言っていいかな?」 「アーン?」 思考を中断されてを見れば、少し棘を含むの笑顔があった。 「腰に手を回す事は許してあげてるんだから、顎に手を掛けるのは止めてくれる?」 何時の間にやら、跡部はの顎を掴んで上を向かせていたらしい。 力の差から言えば、跡部が断然有利で無理やりすることも出来るが、そんな行為に意味は無い。 腰に回した腕だけは外さず、顎を持ち上げる手だけを外した。 どうせテニスコートで必死に練習する宍戸から見えないだろうし、見えたと してもザマアミロとでも言うところで、も恐らくそう考えている。 こう言うところだけはやけに跡部とは気が合う。 「ねぇ、賭けでもしようか?」 悪戯を考え付いた子供のような顔のに、不敵な笑みを向ける。 「乗ってやるよ。何を賭ける?」 言えばは妖艶な笑みを返した。 「俺の時間というのは? 亮がレギュラーに復帰できたら、一日だけ跡部の言う事を聞くよ」 「おもしれぇ。なら代わりにあいつが復帰しなかったら俺がお前の言う事を聞いてやるよ」 結果はもうすでにわかっている。 解り切った上で、があえて自分が不利になる賭けを持ち出したのは、跡部の気使い対する感謝と、宍戸へのほんの少しの嫌がらせだった。 Bet 賭け |