鐘が鳴る

 かつん、こつん。

 真っ暗な闇に、靴音が響く。
 ヴィンセント・ファントムハイヴは溜息をつきながら、長い階段を下っていた。
 暗い上に、湿っぽくカビ臭い。
 降りなければならないらしいと解った時点で帰りたかったのだが、胸元に入っている手紙を思えば、それも出来ずしぶしぶ階段を下っている。
 螺旋状の階段は地下に続いているがためになんの面白みもなく、仕方ないのでここに辿りつくまでの事柄を頭の中で整理し始めた。
 帰ったらまずは風呂に入って、その後に紅茶を飲もうと心に決めながら。

 町から何人もの子供が消えた。
 市井の子、貴族の子、調べがついていないだけで孤児なども恐らく含まれているだろうが、解っているだけでも八十人を超えているのだから、把握されていない貧困層まで含めると三桁を超える人間が消えている事になる。
 幼い子供だけではなく、結婚もしていない少女なども数に含まれ、どうにも裏に何かあると見て女王からついに番犬に命が下された。
 調べてみれば、割と時間はかからずにある貴族を突きとめることが出来、何人もの子供が出入りしていると言う証言も得ることが出来た。
 その屋敷に悠々と乗り込み、いざ屋敷に入ると異様な光景が広がっていた。
 まず人の姿が綺麗になかった。
 貴族の家ともなれば使用人が必ずいるもので、人を雇えぬほど貧しい暮らしぶりではないと聞いている。
 だが、門も軽々と入ることが出来、屋敷に立ち行っても誰も出てこない。
 屋敷内は静まり返り、ただただ闇に包まれている。
 そしてあちらこちらの部屋を調べてみたが何処にも人も姿はなく、ようやくたどり着いたのは開けっ放しになっている地下へ続く階段だった。

 そうして現在に至るのだが、敵の罠かとも考えていたのに全くそんな様子もない。逆に、何もなければに降りてきた苦労が水の泡になるので、ヴィンセントとしてはこの先に何かある事を望んでいた。
 ヴィンセントの気持ちが通じたのかどうか知らないが、やがて階段に変化が訪れた。

 まずは小さな黒ずんだ染み。
 布などの切れ端。
 白い欠片。

 だんだんと数も増え、落ちている物の大きさも大きくなる。
 歩きにくいなぁとぼやきながら、足を進めてようやく階段が終わったところで、広い空間に出た。
 四角い部屋の前方には祭壇のようなものが置かれ、そこで男が一人ぶつぶつと何やら呟いている。
 そして、その周りには無造作に何人もの人間が無造作に倒れていた。
 ぐるりと見回してみると、小さな部屋に納めるには随分な数の死体が置かれていた。
「何用だ」
 ようやく気付いたらしい男が、こちらに向き直る。
 黒い衣装に、豪奢な装飾の付いた本。
 この貴族は何やら良く解らない宗教にのめり込んでいると聞いたが、それの儀式なのかもしれない。
 ヴィンセントにとってはそれ自体どうでもよい、一番重要なのは死体の山と男の正体だ。
「君が、子供たちを誘拐したのかな」
「そうだとも、偉大なる儀式に必要な羊よ」
 男は厳めしい顔で、深く頷いた。
 これで少なくとも誘拐と殺人の犯人はこの男で決まった事になる。
「それで、名は?」
「答える必要があるのかね。この屋敷が誰のものか知って入ってきている君に」
 確かにそれはそうだが、いちいち面倒な男だなとヴィンセントは溜息をつく。
「それに、女王の番犬に名乗る為の名などないわ」
「なるほど」
 相手もこちらの事を知っていたのは驚きだった。
 ヴィンセント・ファントムハイヴという名を知っていたとしても、番犬を知る者は少ない。
「だがそれも今日で最後よ……女王の番犬め!!!」
 両の腕を天に掲げ、男は嗤う。
 無風状態の部屋でざわりと空気が動き、蝋燭の影が大きく揺らぐ。
 初めてヴィンセントは僅かに目を見開いた。
 ただの胡散臭い魔術師気取りかと思ったが、そうでもないらしい。
「百の贄と我が魔術によって、悪魔がここに現れるのだ!!!」
「悪魔ねぇ……」
 神だの悪魔だの信じていないヴィンセントだったが、この光景はいると言わざるを得ない光景ではある。
 うねる影が祭壇を中心に広がり、やがて一点に収束してゆく。
 男の笑い声が響く中、闇は一瞬で霧散した。

「随分とうるさい男だ」

 ふわりと姿を現したのはこの世の者とは思えない、美しい人物であった。
 祭壇に腰かけているのは、漆黒の髪と赤い瞳を持ち、白い肌のやや細身の大層若い人物だ。
 声からするとやや低音なので男のなのだろうが、その姿は誰もが恍惚するほどの美しさがある。
 呼びだした男でさえも高笑いをやめ、ぼうと男を見つめている。
「おぉ……美しい私の悪……!!!!」
 男の言葉は最後まで紡がれることなく、途中で途切れた。
 代わりに、鈍い音と共に苦悶のうめき声を上げる。
 不意に手を振った悪魔によって、男の体は見えない力によって壁に叩きつけられたのだ。
「気安く触るな、そして俺はお前のモノになった覚えはない。これだから人間は……」
 ふんと鼻を鳴らした悪魔は、男の一瞥をくれて周囲を見回す。
「ここに来たのはお前の為でもお前の力による物ではない。ここにいる贄に呼ばれ、魂を喰らう為に来たのさ。恐怖、怒り、嘆き、苦しみ……まさに甘美な極上の餌だな」
 軽やかな動作で悪魔は祭壇から飛び降り、赤い舌で唇を舐める。
「それで、お前はこれとは違うようだが、贄でもないらしいな」
「まぁ、そこの男を捕まえるか殺すが役目だったのだけれど。まさかこんな展開になるとは思わなかったので、成り行きを見守っていただけだよ」
 肩をすくめると、悪魔は愉快そうに笑った。
「とんだ笑劇で面白いだろう」
「確かに、それに悪魔も初めて見れたからね」
 悪魔がヴィンセントに向かって一歩踏み出した時だった。
「契約を!!」
 苦悶の表情をにじませた男が、血を吹きながら声を上げた。
「我が魂と引き換えに契約だ!!」
 男は必死の形相だったが、対する悪魔はやれやれと僅かに首を竦めただけだった。
「先ほども言ったが……俺はお前に呼びだされたわけではない上に、命令される筋合いはない。お前の魂なぞ興味もないしなぁ……」
 ふむと、しばし考え込む動作をしたのち、くるりとヴィンセントに向き直る。
「アンタとなら契約しても良いぞ。魂を喰って帰るつもりだったが、気が変わった。折角現世に出たのなら、このまま外にも出てみたいし」
 随分簡単に契約を持ち出す悪魔に、ヴィンセントは僅かに眉を潜める。
「生憎、私は魂をやるつもりはないけどね」
 悪魔の契約など詳しくは知らないが、先ほどの男の口ぶりからするに、魂が契約の代償となるのだろう。
 だが、ヴィンセントは悪魔なんぞに力を借りずとも、今までずっと番犬を続けてきたのだし、契約するメリットがない。
 顔は非常に好みなので、傍に置いておくには目の保養になるが。
 悪魔は気分を害した様子はなく、珍しい物を見るようにしげしげとヴィンセントを見つめる。
「じゃぁ、こういうのはどうだ? 俺の力を貸す代わりに、俺はこの世に留まって別の人間の魂を喰らう。血なまぐさい仕事してるなら、魂を喰らう機会も多そうだからな」
 思わぬ提案に、ヴィンセントも考えを巡らせる。
 悪魔の能力は解らないが、少なくとも人間とは比べモノにならない力を有している事は間違いない。
 そうなれば裏の仕事やりやすくなる上に、喰らうのは仕事で殺した人間の物だ。それを喰らうのが良い事なのかどうかは解らないが、無差別に人を殺すわけではないのだから、少なくも害はないはずだ。
 ヴィンセントが考え込んでいる間、悪魔は召喚者である男と水掛け論を繰り広げている。
「貴様……私がこの死体を集めたからこそ出て来られたのだぞ!!」
「用意したのはアンタだろうけどさ、召喚したのは死んだ奴らだ。さっきも言ったけど、従ってやる必要はないだろ? 魂を喰わせてくれるって点では感謝してやるよ」
 ふふんと悪魔は楽しげに鼻で笑う。
「契約をしたら、裏切る事はあるのかな」
 突然のヴィンセントの言葉に、悪魔は先ほどとは違う笑みを口元に乗せた。
「裏切るのはどちらかな?」
 その様子に、ヴィンセントは笑みを浮かべる。
「契約しよう。顔も性格も気に入ったからね」
 男が何かを喚いていたが、悪魔は気にした風もなくヴィンセントに歩み寄る。
 近づいて来た悪魔は頭一つ分ほど身長が低く、近くで見ると天使と見まごうほどに美しいが何処か淫靡で蠱惑的だ。
 悪魔のほっそりとした腕が首の後ろに回され、細い腰をヴィンセントは抱き寄せる。
「我が力と引き換えに、自由と魂を」
 甘いと息と共に吐き出される言葉は、酷く耳に心地よい。
 朱を引いたような唇が薄く開き、誘うように赤い舌が伸ばされる。
 必然的にヴィンセントも舌を伸ばし、深い口付けと共に舌を絡ませる。
 じわりと口内が熱くなり、甘い唾液を吸い上げる。
……」
 つるりと漏れた言葉に、言った本人であるヴィンセント自身が目を見開く。
 その言葉が、悪魔の名前であると何故か理解できた。
 はにやりと笑い舌を出した。
 赤い舌には先ほどまではなかった複雑な紋章がある。
「そう、我が名は……そしてこれは契約印だ。ヴィンセント、お前の舌にも同じ物がある」
 こちらが名乗ってもいないのに、は既にヴィンセントの名前を心得ているようであった。
「さて、まずは初仕事と行きましょうか、ご主人様?」
 恭しく礼をして見せたベリアルに、ヴィンセントは楽しげに笑う。

「なら、そこの獣を狩っておいで」

 女王の許しは出ている。
 は美しくも酷薄な笑みを浮かべ、優雅な足取りで男に歩み寄る。
 男は相変わらず何かを喚いていたが、それもぴたりと止んだ。声を出したくとも、鋭く長い爪によって喉を引き裂かれたのだ。
 断末魔の代わりに、口角からは血泡が吹き出し、壁に派手に血しぶきがあがる。
 自身は爪以外に血が付く事もなく、祭壇に掛けられた布で指先を拭っている。
「さて、どうしようかな」
 ヴィンセントの言葉に、が小首を傾げた。
「何が?」
「屋敷の人間に君をなんて説明しようかと思ってね」
 言うと、はそんなことか、肩をすくめて見せた。
「んー貴族が飼っている動物ってなんだ?」
「やはり犬が多いんじゃないかな、狩猟にも使えるし。それがどうか……」
 ヴィンセントが言い終わらぬうちに、の体が巨大な影に包まれる。
 収束した影が霧散した後には、艶やかな漆黒の毛並みを持った犬の姿がそこにあった。
「驚いたね」
「悪魔は実態を持たぬが故に、形を変えるのさ。人間を惑わすにはさっきの姿が良いが、貴族の中にいるのなら礼儀を守る必要のない獣のが気が楽だ」
 ふわぁとは大きな欠伸をした。
 犬となっても会話は出来るらしい。
 確かに、人の姿よりも犬の方が便利な時もあるのだろうし、屋敷の人間にも貰っただの拾って来ただの言い訳がずっと楽だ。
「確かにそうだろうけれど犬とはいえ、ファントムハイヴの犬ならば躾はしっかりしないとね」
 言うと、は犬の姿のまま、器用に口角を上げて見せた。
「まぁお手柔らかに。さぁて、もうやる事はやったんだし、さっさと出ないか」
 場所に飽きてきたらしいの言葉に、ヴィンセントも頷く。
 後片付けはどうせ警察が全てやってくれるのだろうし、不自然に死んでいるこの男についてもうまく処理をしてくれることだろう。
「そうだね、早く風呂にでも入って紅茶を飲もう。いい茶葉を仕入れたから、君もどうだい?」
「是非とも評判に預からせていただこう」
 一人と一匹は、濃い血の香りが漂う部屋をゆっくりと出ると、木製の重々しい扉を閉めた。


 女王の元に番犬が一匹。
 その番犬に犬が一匹。
 二匹の犬が歩くは死の小径。
 カランコロンと音が鳴る。
 死者を誘う鐘が鳴る。

ー幕ー

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