血の縁

 パリン……と澄んだ音に、僅かに広がる芳しい香り。

 思わずがそちらを見ると、割れたビーカーと滴る血が目に入った。

 皆の注目で、その生徒はあははと軽く笑った。

「いや、手が滑ってもうて……」

 関西特有の独特なイントネーションに、素通しの伊達眼鏡のこの生徒は、忍 足という。

 今は科学の実習中で、全ての実験を終えて器具を洗っているところだった。

 薬品などはもう残っていないだろうが、教師が心配げに声を掛けていた。

 皆が心配げに見やる中、はほんの微かに香る匂いに思わず顔を背けた。

 いくら跡部から定期的に血液を貰っているといえど、そんな物は渇きを潤す 程度の物。

 本来なら人の半分ほどの血液を取らねば、この渇きを潤す事はできず、どう しても反応してしまう。

「とりあえず、保健室で手当てした方がいいだろう。、ついて行ってやれ」

 何故か教師に名前を呼ばれ、は怪訝そうに首を傾げた。

「確か保健委員だったろう? 今日は保健の先生がいないから、職員室で鍵を 貰らってこい」

 は適当に先生に委員会を頼まれた事を思い出して、仕方なく忍足と共に科 学実習室を出た。

 ぽたぽたと流れる血の量はさして多くもなく、傷も深い物ではない。

 それでも、掌に盾に引かれた筋は、置いてある絆創膏程度で覆い切れないだ ろう。

 血を前にして生理的欲求と必死に戦いながら、は消毒液やガーゼを用意し た。

「縫わなくても平気だろうが、当面は使わない方が良いな」

 そういうと、忍足は深い溜め息を付いた。

「動かすな……と言ったところで、大会があるんやけどなぁ……」

 そういえば、彼も跡部と同じテニス部であった事に今更気付いた。

 ラケットは握れなくもないだろうが、相当難しいだろう。

「そんなこと言ったところで、これでやれると思うのか?」

「無理やろうなぁ……しかも自分の不手際が原因やし」

 強豪ぞろいの氷帝テニス部では理由が何であったとしても負けた時点で、レ ギュラーから落されるらしい。

 だから手を切ったときに、傷の割りに周りの人間が心配気であったのかもし れない。

 しみじみと掌を見る忍足につられても傷口を見た。

 そしてその瞬間、己の血が騒ぐのを感じた。

 芳しい香りが鼻腔を刺激し、ごくりとの喉が鳴る。

 本能がそれを求め、理性が必死に抑える。

「何とかならんもんかな」

 その言葉に掠れた声が出る。

「血を代価に、直してやる事も出来る」

 忍足は驚いていたが、言った自分でも驚いていた。

「その傷口から溢れるだけの血を代価に、その傷をすべて消す事が出来る」

 忍足はなんと思うだろうか?普通ならばそんなことが出来るわけもないと、 笑い飛ばすだろうか。

 自分の正体などばれたところでどうということもない。誰かに話したとて、空 想上の魔物など存在するはずもないと誰もが思うだろう。

 血が飲めないのは残念だが、それならそれでもいいと言うぐらいにかは思 わなかった。

 しかし、忍足は真っ直ぐな目でこちらを見返して来た。

「直せるんか?」

「無論だ」

 手を出せと促すと、忍足は素直に差出した。

 その手を自分の手に取り、はちろりと舌で固まりかけた血を舐め取った。

 鉄錆の味もにとっては甘く、極上の酒のようである。

 己の瞳が赤く染まるのが、見えなくとも解った。

 傷を消す様に、と言うよりも一滴の血も残さぬ様に丹念に舐め取る。

 血の味もしなくなり、手を離すと完全に傷は消えていた。

……一体何者なん?」

 怯えたというよりも、不思議そうな面持ちの忍足に、はふいっと背を向け て出した用具を手早く片付け、傷のない掌に絆創膏を張りつけた。

「……傷はないんやけど……」

「いきなり消えたら連中が驚くだろうが」

 どれぐらいの傷の大きさなどは見ていないのだろうし、この程度で十分誤魔 化せるだろうとは保健室の鍵を手に取る。

「さっさと出ろ」

 忍足は何か言いかけたが、一つ首を振ってと向き合った。

「ありがとうな」

 は一瞥して忍足を見たが、そのままドアを開けてさっさと出るように促し た。

 きちんと鍵をかけて、はさっさと歩いて行く。

「赤い目もなかなか綺麗なもんやな……」

 そう言った忍足の声がの耳に届くことはなった。

ー幕ー

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